反抗期というと大抵は親に対しての反抗になる。壮絶な反抗期を経験した自分からすると、反抗期がなかったと言う人の話を聞くととても信じられない気持ちにいつも身が縮むようだ。太宰治のおしゃれ童子のように、思春期のあふれんばかりのエネルギイは一度ある一定のラインを越えないと、ちょうどいい塩梅にまで戻ってこれないと自分の中では結論づけることで、少しの慰みにしている。しかし、反抗の対象がそもそも親である必要はあったのか。
社会ではルールが全てだ。思春期の子供にとって社会は学校であり、さらに小さい単位は家庭である。個と群の境目もまだ自覚できていない存在には、どうしてここに来たのか自覚もない存在には、よほど窮屈だろう。その狭い箱の中で必死に反抗していたのは、今思えば何故だろうか。そして、そのエネルギイは今や凪のようで、いったいぜんたい、どこへ行ってしまったのだろうか。おとなしい人はどこまでいっても大人しい人なのだ。





























