• 反抗期というと大抵は親に対しての反抗になる。壮絶な反抗期を経験した自分からすると、反抗期がなかったと言う人の話を聞くととても信じられない気持ちにいつも身が縮むようだ。太宰治のおしゃれ童子のように、思春期のあふれんばかりのエネルギイは一度ある一定のラインを越えないと、ちょうどいい塩梅にまで戻ってこれないと自分の中では結論づけることで、少しの慰みにしている。しかし、反抗の対象がそもそも親である必要はあったのか。

    社会ではルールが全てだ。思春期の子供にとって社会は学校であり、さらに小さい単位は家庭である。個と群の境目もまだ自覚できていない存在には、どうしてここに来たのか自覚もない存在には、よほど窮屈だろう。その狭い箱の中で必死に反抗していたのは、今思えば何故だろうか。そして、そのエネルギイは今や凪のようで、いったいぜんたい、どこへ行ってしまったのだろうか。おとなしい人はどこまでいっても大人しい人なのだ。

  • 小さい頃は雑誌の付録とか、本にひっついたナントカのキットなどの類が無性に好きだった。

    スズムシを水をかけるだけで育てたり、小さい部屋に満点の星空を作ったり、鉱物を集めたり。

    いまフラッシュバックしたのは、虫眼鏡とライトがひとつになった筒状の玩具だ。自分の肌の表面を見たり、雑誌のイラストを見たり。印刷物が実際は色の点の集まりだったのは目から鱗で、拡大した世界はどれも大地の起伏のように荒涼としていて、美しかった。

    そして公園の砂の無数の煌めきを忘れていた今の自分。心ときめくキラメキを外部に求め、画面の中に求め、紙と合金に託している今の自分。絶対的な尺度による良い悪いとかは存在しないとはいえ、随分と遠くに来たものだと夢想してしまう。

  • いいね、をする前に、これは本物だろうか。

    AIならしないでおこうと何かへの反抗心で踏みとどまる。しかし、そもそもいいねって何だろうか。

    ひとが作ったオーガニックな投稿なら心からのいいねなのだろうか。なんだか、よくわからない。わからないけれど、数字を稼げばお金も稼げるのだろうか。

    しかし、そもそもお金って何だろうか。うーむ。

  • みんなが知る人が、逝ってしまった。しかし、生きる世界が細分化されている昨今、みんなが知る人というのは減りつつある気がする。全世代を巻き込む知性というか、カリスマ性というか。だからこそ過去の偉人やスターの話が、幾度も再生産される。そして、再生産といえばファッションやカルチャーのリバイバルブームも同じと思う。フルティガーエアロやy2k、レコードや紙の本など。もちろんあの頃の感性は独特で、今見ても(今だからこそ)生き生きしてるように見える。そこまで現代人を熱狂させるのは、AIという人工物が溢れ始めたデジタルな世界、時代からのノスタルジー、逃走があるかもしれない。

    とはいえ、僕の言うみんなが知る人というのもすでに狭い世界での話なのは疑いようがない。

  • ソラのうえには、テンゴクがあるんだよ

    テンゴクのうえには、ウチュウがあるんだよ

    ウチュウのうえには、

    ウチュウのうえには・・・

    またテンゴクがきっとあるんだよ

  • 地球の土の上で生まれた、エラを持たないあなたたち

    悲しいことに青々とした海ではずっと生きれない

    あなたたちを作ったのは厳格な父で、育てたのは豊穣な母

    そんな両親の元を離れ、黒々とした宇宙へいく

    エラを持たないあなたたちは、いつまで生きていられるのだろう

  • 空という圧倒的な質量も、

    ただ広がるだけでは天井が欲しくなる

    建物という圧倒的な質量も、

    ただ籠るだけでは空が欲しくなる

    僕らは圧倒的なナニカにいつも包囲されているけれど、

    自然と人工のあいだを行ったり来たり、

    その度に感動ができるのだ

  • 空想の風船を膨らまして飛ばそうと思う。外装の素材は、中に充填するものは、どのぐらいの大きさ、どこへ、燃料は。そんなことを座って白紙の前で考えているうちに、子供は無邪気に口で膨らました紙風船を扇で煽いで、楽しんでいる。そんな姿が、とても眩しく感じてしまう春の萌ゆる頃。

  • 古本も少しずつ入荷し、そしてちらほらと旅立っていきます。新譜も新刊も人の手に渡っていくのは、それが善いものであるのをわかっているので、無論悦びと感謝が絶えません。それにも増して、古本はこれまた嬉しく、背筋が伸びる思いがします。

    というのも、音楽は今の時代、古い曲も簡単に瞬時にアクセスできる時代です。ネットを通じて耳で聴く。5分もかけずに体感できてしまいます。今なら月々定額で堂々と。さらにAIがコード進行、リズム、キー、ジャンルで腑分けした音楽を提供してくるのを、ひたすら聴いていく。

    では、本は?知識は?AIに聞いてもネットにない情報は答えようがないです。名著としての評価を一定数得ていればご丁寧に解説やまとめがネットに載せられていたり、古今東西の本をスキャンし、ネットにアーカイブしている団体もあるけれど、人に解説されるような本には限りがあるし、アーカイブも著作権の壁で気軽に見れるものではない。

    簡単にアクセスできない領域が現実世界の古本にはある。それが人の手に、そして次の人の手に渡っていき、そこでしか得られない知識と、道標と、力を増していくのがえもいわれぬ充足感になるのです。それはもちろん、新しく産声をあげた新刊たちも同じです。極論、いつかは全て古本になりますから。

    何が言いたいかと言うと、本は制限があるとより輝きを増すな、と。音楽もまた、そのような輝き方があれば、できたら、いや既にあるのか、と。思わずにはいられない日々なのです。