百聞は一見にしかず
この言葉を覚えたての自分は、百聞を百文と勘違いしていた。どちらにせよ百回聞くのも百回読むのも、一見にはしかず。確かに経験則的にこの諺が浮かんできた当時は一見すれば誰でも百文を感じ取れたのだろう。しかし、今は見るだけなら画面越しでもできてしまう。そしてその時に感じ取れるものは、今の自分たちにとってはどうだろうか。少ない方で桁違いな文しか、出てこないと思う。取り戻す必要が、ある。
百聞は一見にしかず
この言葉を覚えたての自分は、百聞を百文と勘違いしていた。どちらにせよ百回聞くのも百回読むのも、一見にはしかず。確かに経験則的にこの諺が浮かんできた当時は一見すれば誰でも百文を感じ取れたのだろう。しかし、今は見るだけなら画面越しでもできてしまう。そしてその時に感じ取れるものは、今の自分たちにとってはどうだろうか。少ない方で桁違いな文しか、出てこないと思う。取り戻す必要が、ある。
沈んでは浮いて。
泳いでいると言うよりは溺れていないが正しい。
水の表面での息継ぎの仕方は教われど、人生の表面でのやり方は、なんだ?
当たり前のように生きることの凄さを僕らは気がついていない。
煮えたぎる湯を電気ポッドで沸かし、コーヒー豆を目分量でミルに放り込み、どの豆でもメモリ4〜5の間の荒さでひいて、カップに直接置いたドリッパーにフィルターを敷き、その洗い立てのTシャツのような白の上に黒茶の粉を落とし、とんとんと少しならしてから(人差し指の第一関節まで埋めて、コピルアックと唱えてもよし)、電気ポッドから白銀のケトルにお湯をバトンパスし、ろくに冷まさずにすぐに乾いた砂丘へと注ぎ、濡れそぼって色が濃くなった大地が浮き始めたら一度注ぐのをやめて、湯気が地獄のように浮かんでいくのを見下ろして、気がついたら何回かに分けてお湯を注いでいく、ケトルが軽くなってどれどれとドリッパーを外すと、カップには並々と黒い底なし沼が現れる。怠惰なりの儀式的な朝の迎え方である。
feeling
thinking
writing
reading
Q. What’s the common thread among them?
ランニングをしていると普段は目にとまらないものが見えてくる。朝でも、昼でも、夜でも。世界が自分のあずかり知らぬところで、素知らぬかおで巡っている無数の流れの一つに身を投じる感覚。
ランニングの記録はちょうど今日で通算280回。別段、毎日とか2日に一回とか週に一回とか、ルールは設けてないので5年目にしては少ないほうだろう。旅先など各所の記録も含まれるが、近所を走ることが多いから200回は同じコースを回ってると考えてよいだろう。
広げた地図(紙の地図は現存するのか?)の上を、200回もぐるぐると描いた線の重なりだけではただの歪な環。しかし、同じ場所をぐるぐるしてるだけなのに全く同じランニングはなかったと断言できる。
熟れ落ちそうに首をもたげる椿の花、見えずとも確かにそこにいる金木犀の花、腕を広げ全てを包み込む桜の花、そして無。
人も同じだ。
春が来る頃に(仮題)2 1→コチラ





















空の青と海の青
大昔にキリスト教を信じていた人たちは、空の上にガラスが張ってあって、そこに水が溜まっていたと信じていたらしい
今の僕らからしたら笑っちゃうような、突拍子もない発想だけど、子供の頃は一度は同じような想像をしたと思う
知識と常識のフィルターを幾重にも纏うようになった僕らは、ピカソの気持ちも今ならわかるような気がする
8/15
終戦記念日、今年は80年目
親父の誕生日、今年は67年目
ああ、どうか、この先もこのままで
穴を掘る
爪の間に黒い砂どもが入ろうと
穴を掘る
顔のない幼子と顔を合わせながら
砂山を掘る音は確信に満ちている
穴を掘る
こちら側とむこう側