• 古本も少しずつ入荷し、そしてちらほらと旅立っていきます。新譜も新刊も人の手に渡っていくのは、それが善いものであるのをわかっているので、無論悦びと感謝が絶えません。それにも増して、古本はこれまた嬉しく、背筋が伸びる思いがします。

    というのも、音楽は今の時代、古い曲も簡単に瞬時にアクセスできる時代です。ネットを通じて耳で聴く。5分もかけずに体感できてしまいます。今なら月々定額で堂々と。さらにAIがコード進行、リズム、キー、ジャンルで腑分けした音楽を提供してくるのを、ひたすら聴いていく。

    では、本は?知識は?AIに聞いてもネットにない情報は答えようがないです。名著としての評価を一定数得ていればご丁寧に解説やまとめがネットに載せられていたり、古今東西の本をスキャンし、ネットにアーカイブしている団体もあるけれど、人に解説されるような本には限りがあるし、アーカイブも著作権の壁で気軽に見れるものではない。

    簡単にアクセスできない領域が現実世界の古本にはある。それが人の手に、そして次の人の手に渡っていき、そこでしか得られない知識と、道標と、力を増していくのがえもいわれぬ充足感になるのです。それはもちろん、新しく産声をあげた新刊たちも同じです。極論、いつかは全て古本になりますから。

    何が言いたいかと言うと、本は制限があるとより輝きを増すな、と。音楽もまた、そのような輝き方があれば、できたら、いや既にあるのか、と。思わずにはいられない日々なのです。

  • 「かげおくりって覚えとる?」

    「うわ、なんだっけそれ、小学校の頃なんか流行ってなかった?国語の教科書に載ってたやつ」

    「そうそうそれ。ちいちゃんのかげおくりってやつ」

    「あったあった!なつかしー。休み時間に校庭に駆け出してみんなでやってたわ」

    「ねー」

    「でもそれがどしたん?急に」

    「あのときさ、みんな自分の影に向かっていろんなポーズして、上を見上げてはしゃいどったけど」

    「おう」

    「実は私何も見えてなかったんだ」

    「まじで?頭の上に両手置いてめんたまー!ういてるー!とかやっとらんかったっけ」

    「うん、みんなに合わせて見えてるふりしとっただけなんよ」

    「ふーん。そうなんだ。でもなんでそんな懺悔みたいに今更?」

    けらけらと笑ってやってやる。だって、あまりにも深刻な顔を机の向こう側でしていたから。そんな大したことなんかじゃないよ。気にする必要ないって。本当に懺悔のつもりだったのだろう、俺の言葉にまだ浮かない表情をしているが、心なしかつきものが取れたようにみえた。お前は偉いよ。周りに合わせるだけでなく、それを罪と感じて、ちゃんと素直に謝れて、なにより自分に素直になれて。俺が自分に素直になれないのは、まだ大人になりきれてないからだという言い訳を胸にしまう。だって、目の前の、同じ階段を同じ歩数で歩いてると思ってたやつが気付けば先にいたんだから。

  • 「ThreadsやX、noteといった文字をメインに据えた媒体は使わないつもりだ。」

    声高らかに宣言するようなことでもないのだけれど、いま一度、自戒のためにもこんな辺境の地の隅っこで、叫んで(書いて)みる。

    一方通行ではなく、お互いのやり取りが可能であることは素晴らしい。そしてそのやり取りが第三者から目に見える事は、ある種の緊張感と検閲の効果をもたらし、健全さが担保される。さらに、拡散していくことで新たなビジネスチャンスの到来や、一個人で一組織並みの影響力を持つことができる。素晴らしいことじゃないか。

    『だけれど、疲れてしまったんだ。』

    ・・・そんなことをノートパソコンで苦い顔をしながらカタカタ書いていると、窓の外で配達の人がバイクを停め、荷物を片手に上や下や、看板を見て去っていく。海外からの荷物が届いたんだ。すぐに羽織に袖を通してカウンターの横から外へと出て追いかける。出入り口のガラス戸の向こう側は、暦通り大寒を経て底冷えの脅威が待ち構えていた。

    「すみません、エーエムエムイーエル、アンメル宛のですよね。転送で頼んでおいた」

    やはり、朝イチに転送を頼んでおいた本たちだった。配達員は人懐こい笑顔を見せて本たちを渡してくれる。

    ネットのおかげで個人でもこんなことができている。SNSやネットに対して、それに限らず目につく物事に対して斜に構え、天邪鬼な言葉を放り投げる。一方で、批判しているものたちを都合よく、甘んじて受け入れている自分の子供っぽさはいつなおるんだろうか。いや、子供大人関係なく、これは自分の個性であり、治るとか病気ではないし、故障でもないから直すものでもない。何事も謙虚に、粛々と。

    去り際に本とレコードが好きなんだと爽やかに言う配達員との会話は割愛する。しかし、なんというか、街の人であることは、ことさらに気分がいい。

  •  国語のテストで、それも学校のではなく塾のテストで「ひとまわり」が何年か、選択させる問題が出た記憶がある。文脈は確か、年長の人が久しく会う親戚の子供に対してひとまわり大きくなったね、という流れだったか。選択肢はいくつかあり仔細までは覚えていないが、私がその問題を間違えたことだけは確かだ。そうでなければ、ひとまわりという単語が出るたびに一種の緊張感が内心に滲み出るはずがない。「ひとまわり」は、何がどこをひとまわりするのか?地球が太陽の周りか、月日がカレンダーを巡るのか、四季が次々と死と再生を繰り返し元の姿に戻る頃か。

    おそらくテストに出た時は文脈で「大きくなったね」が語尾についたことで、「子供が倍大きくなるのに必要な年数」としたり顔で3年(もしくは選択肢でそれに近しい数字)と選んだしまったと、弁明させて欲しい。3年もあれば人は変わるものだ。姿形も内面も変わっていくものだと。そもそも、人は内面が否が応でも表に出ると昔から信じている。自分の中に何か心境の変化や、新しい概念を吸収していくとそれだけで生まれ変わったような気持ちになれる。目から鱗はある程度剥がれ落ち、多少のことでは動じなくなる。それに、服も髪型もメイクも日々変化していく。流行りを追っている自覚はないが、その都度アップデートしているつもりなのだ。

    だから、あれからひとまわりもふたまわりもして、体は大きくなることはなくむしろ縮むか横に伸びるだけの年頃でも、旧友が街中のすれ違いや待ち合わせでも難なく私を有象無象から見分けて声をかけてくれることに毎度驚かされる。世の中には人が溢れている。モブキャラのように歩いている人たちの姿形なんてわざわざ見分ける必要も、見る必要もない。そんなもんだから、「えっちゃん!」と急に声をかけてきたモブキャラの顔の皮が破れて、旧友の12年、24年、36年ぶりの顔が現れると寿命が縮む思いだった。それと同時に、ああ、良くも悪くも私はまだあの頃のままなんだなとしばし落胆してしまう。子供での3年と大人の3年は違う。12年にもなれば尚更だ。そうだ、ちなみに「ひとまわり」の答えは干支を一周して、つまり12年単位のことだ。私たちの生活は12で縛られていることが多い気がする。漠然とそう思ってしまうのは、親を亡くし茫然自失としていた折に近所の美術館でやっていた展示の中で、快楽の園という絵画を観たからだろう。あれは一見変態的創造性の解放だけに見えるが、学芸員の説明文では12や7など、数字という秩序に支配されているものらしい。私からすると、視界に入った瞬間の、あのカオスが全てだった。突然の交通事故で遺族となった瞬間から、真ん中が空っぽになっていた頭と心に違和感なく溶け込んだカオス。内面は表に出る。今の私はどんな顔をしているのだろう?しかしそれも杞憂なのだろう。

    ひとまわりするたびに旧友と増える話題は健康、相続、介護、教育、年金、後のもう何まわりも残っていない人生への憂いなのは仕方ない。私たちの体は、耐用年数を無理くり引き上げて老朽化に対抗する建築物なのだ。その建築物は理由もない暴力に晒される心配がない分(それもいつまでかわからないが)、雨風による風化を待つ他ない。風化していく街並み。白んできたままにしている髪も、隠しようのない笑い皺も私の内面だ。

  • 12年と言うと干支がくるりと一回転して、ひとまわりと呼ばれる単位になり、そう思うと建物も人も何もかも変わっていると思っていたけれど、そこに確かにあることに変わりはなく、あとどのぐらいまわることができるのかと翳りも見せるが、変わることと変わらぬことが両方存在できることが新たな希望となった

  • 硬いのか柔らかいのかよくわからない棒を無心に振るう人間。ぬめりとした質感の服に身を包み、手は過保護なまでに膨れ上がり、顔には飛散する有象無象から守るためにフェイスガードが張られている。打ちのめした破片で細かく傷ついた向こう側はよく見えないが、喜怒哀楽、どんな表情をしていても、その恐ろしさに変わりはない。人が怒りを発散させる場。私生活で色々とあったが怒りを発散させることで蝶が舞うような気分になると利用者は言う。実際、器物損壊など犯罪が多い街のために設置された空間。人の欲に応じたビジネス化は古来から存在するが、犯罪を犯させないために犯罪を合法的な領域に引っ張り出し、創造に昇華させずにただ置換するやり方はあまりにも短絡的ではないか。と、煙草や酒をちびちびと口元に運んでそう、テレビの前でうそぶく。

  • 「人っていつ死ぬかわからないから怠惰なんだ」白いコーヒーカップをかちゃりと白いソーサーに戻す音。硬い言葉にハッとして視線を窓の外から机の向こう側へ戻す。遠くに見える子どもの動線を目で追っていたので、完全に上の空だった。そんな私を特に責めるような視線は送らずに、彼は白く縁取られた黒い液体を注視していた。その奥に、探しているものがあるかのように。

    「人がいつ死ぬかを決められるのは今のところ自殺と、安楽死ぐらいね」怠惰の方はひとまずふれずに、適当に話を受け止めるが、否定も肯定もしたくないので付け加える。「まあ、わたしたちの住むこの国ではどちらも違法だけど」さも興味なさそうに窓の外へと顔をまた向ける。子どもは親の周りをくるくると回っている。時折、笑い声がここまでこだます。

    「自分の命ぐらい、自分が所有しているんだからどうしたっていいじゃないか。・・・他の人のはともかく」彼は、まだ正気なのだ。「人が作った法が人の自由を縛るなんて、所有するのが自由なら破棄するのも自由であっていいはずだ」正気だからこそ、屁理屈をこねてなんとか抗って見せているのだ。わたしは左手を伸ばして、彼のコーヒーカップを静かに持ち上げ、自分の口元へ持っていく。彼の目線の先は黒い鏡から、白くつるりとしたソーサーに描かれた「喫茶ゔぃーた」のロゴが入っていることだろう。

    「昔は宗教がその法の代わりだったらしいけどね」そう返して、一口啜る。ここの喫茶店のコーヒーは、黒く、熱く、苦く、まるで地獄のようだ。「友達はそのおかげで死ねなかった」「そう、それならよかったじゃない」銀色の小ぶりなカップを右手でつまみ、コーヒーの中にさっと入れる。ふわりと黒と白が歪に混ざり合い、せめぎ合い、地獄は少しマイルドになる。コーヒーカップを彼が凝視しているソーサーの上にかちゃりと返す。飲んだ時についた色が、白い丸い縁の対角線に並ぶ。

    「宗教も法も人が作った。人が人のために作った。その上で、人生を全うしているのはきっと、いいことよ」屁理屈には屁理屈で返してやる。ここで答えを与えてやる必要はない、その方がきっと彼のためだ。「それじゃ、ここはわたしがもっといてあげるから。先に行くわ」透明な円筒に入っていた紙切れをとり、席を立つ。窓の外をチラリと横目で見ると、すでに親子の姿はいなくなっていた。

  • すれ違い様に声をかけられる。時の流れは足跡荒く、昔は美男だったであろうその老人は、酒で赤くなり、シワやできもので凸凹とした顔をしていた。そこに、うすら笑みを浮かべている。あんた、◻︎⚪︎(貴方の仕事上の立場をここに当てはまるとよい)かい?ええ、そうですが、何かお困りごとでしたか?ないけど…そうかそうか。

    ざらついた空気を残される。老人のうすら笑みは鋭角を増し、その様相と返答に思わず眉をひそめてしまう。

    それでは、いかがしましたか?いやね、まさかこんなところに◻︎⚪︎がいるなんて、あんた、もっといい場所なかったの?老人は立て続けに言う。若いのに。

    お客様、失礼ですね。

    海馬体がおぼろげな楽しい記憶を貫いて、けたたましい音のする、苦く、鮮明な、泡立つ記憶を引っ張り出す。全身の逆立った毛穴から、黒い気がふすふすと渦巻いて溢れる。この手合いは話を続けてもムダだ。愛想笑いをする時期はもうとうに過ぎ去った。早々に離れる。

    それが一周目の話。期待なぞしていなかった二周目がやって来ると、老人は馴れ馴れしく肩をポンと叩き、こう言った。悪気はなかった、勘違いしないでくれろ。な?

    こちらの顔をわざわざ覗き込む様がささくれ立つ感情を逆撫でしていく。

    お客様、失礼します。

    決別の言葉だけを残していく。ザマアミロ。身から出た黒い気はあたりを漂っていたが、やがて霧散していこうとする。次第に、自分が確かに、なぜこんなところにいるのだろうとハッとする。どこか別のばしょに。その答えを自分は知っている。そしてあの老人も知っていた。たった、それだけのこと。時の流れは足跡荒く、しかし足跡はこれからも続いていく。

  • 気がつけば今年も一年が過ぎ去っていた

    どんな年だった?

    パスタは塩をしっかり入れて、ぐらぐらと沸かしたお湯で茹でると美味しくなることに、ようやっと気づいた

    そんな年でした

  • 百聞は一見にしかず

    この言葉を覚えたての自分は、百聞を百文と勘違いしていた。どちらにせよ百回聞くのも百回読むのも、一見にはしかず。確かに経験則的にこの諺が浮かんできた当時は一見すれば誰でも百文を感じ取れたのだろう。しかし、今は見るだけなら画面越しでもできてしまう。そしてその時に感じ取れるものは、今の自分たちにとってはどうだろうか。少ない方で桁違いな文しか、出てこないと思う。取り戻す必要が、ある。