本屋は力持ちなので
不意の言葉に思わずほおは緩み
背筋はしゃんと伸びる心持ちになる
本屋は力持ちなので
不意の言葉に思わずほおは緩み
背筋はしゃんと伸びる心持ちになる
人から人へとつなぐ
一期一会で次はないかもだけど
顔は合わせなくとも人がつないでくれる
街の人になるとはこういうことなのだろう
感謝は尽きることはなし
列車は乗せていく。人や、物。空気。目に見えない想い。思い。早いにこしたことはないが、どうも早く点から点へと動いているとトキを置き去りにしてしまっている感覚になる。いや、むしろ、これは、トキから置き去りにされているのだろうか。浦島太郎某のように。扉が開けば、ぼわっと。白い煙に包まれてしまう。モヤが晴れる頃には、私の白髪はどのぐらい増えているのだらうか。
内からみたらしさと、外からみたらしさと言うのは往々にして乖離するものであって。それは人であっても街であっても同じように起こり得る事態で避けようもない。
日常なんてものはなく
珈琲のかおり 頁をめくる指先 心の中で文字をとなえる 耳に届く無音のおと 刻刻とゆらぐ光のかーてん
死への恐怖 飛び交う怒号 悲しみの暮れ 鉄の臭い 節くれ立つ身体 最後の夕日 最後の月 最後の時
日常なんてものはなく
言葉の限界を知る
言葉の限界を知った今を生きる哲学者は
詩人となる
同じ言語を扱うにせよ
重みを知る一言と何も知らぬ一言は
やはり響きが違うのだ
視線を感じる
首のない亡霊
衣服の抜け殻
いない人びと
今をわたしは
私は今本を読んでいる
線の繋がっていないへっどほんを耳に
電波で繋がっているすまーとほんをポッケに
音楽は何処かからやって来て
どうにかして耳元へやって来ている
子供達は魚が切り身で泳いでいて
とりにくがどんな羽とくちばしを持っていたかを知らない
出されたものをそのまま食すような大人
にはなりたくないものだが
大人を見て育つ子供の背中を見るまだ実体なき子供たち
大人の背中は意外と小さいものなのだ
能面は左右で非対称となっていて、付けた際の右側は人間性、左側は神仏性を表すという。そして生物学では右脳が感情の処理に優れているので、感情が出やすいのは左側の表情だという。左右非対称の美、不完全の美はまことに日本人の美学に通ずるものと思われるが、感情を表しやすい左側が神仏とは面白いじゃないか。
花束を胸に抱いて寝ることの
なんて幸せなことか
別れの言葉でなく
感謝の手向に
私とあなたに