• issue28

    issue28

    小さい頃というのは、皆あるがままに身体を振り回し、駆け回る。

    世界と一体だった。

    世界がそのまま自分の姿だった。

    しかしある日から変化が生じた。

    器を感じる。

    境界線を感じる。

    やがて「大人」たちは身体の内側に耳を傾けるようになる。

    大人たちと同じ大人になっている。

    その後ろ姿が小さく見えるのは老いたからだけではなく、世界から分離されてしまった当時の子供の姿のままで、この世を彷徨っているからかもしれない。

    以下岩波国語辞典第八版より引用

    ヨガ 呼吸を整え、瞑想(めいそう)の世界にはいって、正理と一体になること。古代から伝わるインドの心身鍛錬の方法。近年は健康法としても行われる。喩伽(ゆか)。ヨーガ。▽梵語

  • memory15

    memory15

     厳しい寒さを耐え抜き、柔らかくなった日差しを浴びて青々とする草はらに身を預ける。カバンの中身は硬いものばかりで枕の代わりにしてはいまひとつだ。伸びを一つすれば、耳元からは下敷きにされている本、ノート、ボールペン、イヤホンケース、家の鍵、財布、スマホたちの不平不満がガラゴロと聞こえてくる。それでも、そんなことは気にならないぐらいに気分がいい天気だ。視線を少ししたにやると、対岸の方でも同じように緩やかな傾斜に伸びきっている人が何人かいた。その隙間を縫うように子供や白い犬が駆け回る。甲高く抜けてくる歓声が響き、犬のしなやかな肢体は太陽の光を放ち白く輝いてる。子供はやにむに犬を追いかけ回し、犬の方はぴょんぴょんと数歩先を軽やかに跳ね周りながらも子供を意識の外からは追いだしていない。やがて子供が追いつくと犬は尻尾をちぎれんばかりにふりまわして子供の顔を舐め回す。

     動物と人間を分けるものは理性の有無という話がある。動物には闘争か逃走の本能しかない。そして親子の愛情に見えるのも、種の保存という生物としての本懐が織りなす自然的な現象に、客観的なストーリを与えたものに過ぎない。しかし、こうやって目の前で繰り広げられているヒトとイヌのやり取りは、本能を捨て種を越えた絆を感じさせるのはなぜだろう。ヒトとイヌは太古の狩猟民族時代の時から共存関係にあり、DNAに深く刻み込まれているからだとある本には書いてあったが、おそらくその著者は犬が好きでたまらないのだろう。

     生きるために、種を保存するためにより強い存在に自分の身を委ねること(本能)がヒトから見て愛情に感じたのであれば、大多数が去勢されDNAのねじれた輪の最後となっている彼らは何のために生きるのだろうか。言葉はまだ必要ないので、彼らは今のところ、何も語ることはなく沈黙を続ける。

     …などと小難しいことも考えつつ、あの犬が川を飛び越え、こちらに駆け寄ってきてくれないかしらとじれったい気持ちを持て余すぐらいには私も犬が好きである。

  • story3

    story3

     早咲きの桜たちも散り、群がる大衆も散り始める頃。闇夜に息を潜める木々に、歪な丸い影がおぼろげに浮かんでいる。生半可な数ではなく、無数に、だ。月明かりを冷ややかに受け、濃い桃色を発しているように私の脳は認識した。不老長寿の果実を彷彿とさせるそれらはたわわに実り、見上げるものに上から覆い被さろうと両手を広げる様はまさに圧巻である。古来からヒトが夢見る桃源郷には、文字通りこのような木々がたくさん植っているのだろう。

     しかし、そもそも果実のなる木など、この辺りにあっただろうか?不思議に思い目を凝らすと、歪な影をした果実はその実、ふさふさとした花弁の集まりだった。花弁はいささか窮屈そうに何重にも寄り集まって、闇の中から静かにこちらをじっと見ていた。短い空気が喉を鳴らすのを感じ、思わず一歩後ろに退く。すると、風もないのに木々がざわめき始める。音は、正体を見抜かれたうらみつらみをたてているように聞こえる。驚きは胸に一石を投じて全身を震わし、ついには渦巻く恐怖に変わり、私は溺れまいと手足を必死に振り回してその場から走った。とにかく遠いところへ。脇目も振らず。背中にまとわりつく感覚が薄れる頃には、息も絶え絶えだった。その場にへたりこみ、のぼせ上がった頭が冷えてくると、なぜ見間違えただけでああも恐怖に慄いていたのか、自分でもちゃんちゃらおかしくなってきた。

    「あの花が咲く木の下にはヒトの屍体が埋まっているんだ」

     幼少の頃に交わした会話が平静を取り戻しつつあった頭に浮かぶ。

    「しかも決まって、一人寂しく死んだヒトだけがあの木になるんだ」

    「寂しがり屋なんだよ」

    「だから美しくも、はかない花を一年に一回だけ咲かしてヒトを呼び寄せるんだ」

    「呼び寄せて、それでどうするかだって?」

     地面には役目を終えた桜の花びらたちが土と水気に汚され茶色混じりに散らばっている。

     会話は続く。

     別にとって食われはしない、ただ覚えていて欲しいんだ、と。

  • memory14

    memory14

    「音で形を感じれるものがあるとするなら、音の波形以外に何があると思いますか?」

    「まず『形を感じる』ということは五感のうち①視覚的にみること②触覚的にふれることのどちらかに当てはまる。そして、前提として①も②も空間が必要である。」

    「それなら『音で形を感じる』にはどうすれば良いか。音は耳から入る。音は時間と共に変化し、流れて行く。しかしそこに空間という概念はない。」

    「耳から入る音で時間を感じることは出来ても、目や肌のように空間を感じることは難しい。しかし例外として、①は人によっては音に色を見出す人もいるし、②は空気を震わすほどの音圧は肌でも感じ、黒板をひっかく音は背中を引きつらせる…まるで音が直接肌をつっつくように。また、実物はそこになくても、ある音を聴いたら過去それと同じ音を聴いた場面が頭の中に浮かぶことがある(見たことない風景が現れることもある)。頭の中で見ることも、一応①の視覚的にみることに入れておく。」

    「以上のことから、『(時間と空間、つまり時空を越えて)音で形を感じる』にはi:生まれつきの体質 ii:音圧を増やす iii:記憶を刺激する音を再現する、あたりだろうか。iは先天的なものなので、iiとiiiが時空を越えられそうな方法ではある。が、iiは音の波が振動するさまを肌がビリビリと受けるだけであり、iiiも特徴的な波形が作用してるだけなので、結局のところは『音の波形』と言いまとめてしまえるだろう。」

    「…蛇足にはなるが、音の重なりのハーモニーもある意味空間を成しているので、それも一つの答えかもしれない。」

    「君はどう思う?」

    「ⅲから発生する自分の記憶とかふとした感情からくる喉の震え、倍音とかは感じます。波形てきなものですかね。あとは他者を刺激した際にでる反応(表情、声)も別の形で面白いかなと。」

  • issue27

    issue27

    助けられること

    救われること

    この差を感じるあなたには救いが必要

    かもしれない。

  • person1-2

    Person1-2

    活動を止めようとする体の音を

    刻一刻とすり減っていく命の音を

    浮かんでは消えていく心の音を

    最期まで貴方は教えてくれたんですね

    教授

  • memory13

    memory13

    「言葉を定義するから意識的な差別が生まれるのではないか?」

    「言葉を定義するから無意識的な差別に気がつけるんだよ」

  • issue26

    issue26

    文章を自ら書き始めてみると、どうにも言葉に置き換えることができない感情や光景、現象にままいきあたる。

    正確にいうと置き換えること自体はできるのだが、出来上がったものは自分が思い描いていたものとは全く違うものである。

    本屋の店頭、目立つところに、正確なタイトルは忘れたが「現代人のための感情を表現する言葉の類語辞書のような本」(あくまで国語辞典とは違う)というのがあったので、パラパラとめくってみるが既に知っている言葉ばかりだった。

    外部に頼るのをやめ、記憶を探り、似たような経験が今までにないか内部に聞いてみても返ってくる言葉はない。

    ただ、表現しきれなかったという、モヤモヤとしたものが胸の内に残る。

    そう、「モヤモヤ」。

    オノマトペという、実に便利な表現しか残らない。

    このモヤモヤを泣いて発散するのは子供までで、いい大人は言葉に落とし込んで納得する必要がある。

    しかし、このことについて考えると、先人たちが残してくれた美麗で、優美な言葉、日本語を我々は失いつつあるといやでも実感してしまう。

    冒頭の、本屋で見かけた本なんかがその例の一部とも感じる。

    現代人にはなくて、皆が欲しているであろうとマーケティングされているもの、現代的に一言で言えば「語彙力」というやつだろうか。

    小さい頃なんかは国語辞典を引っ張り出して、適当に開いたページの言葉を読むなんて遊びもしたものだが、ある程度の年齢にもなるとわざわざそんなことをする人は少なかろう。

    だからこそ、読書という習慣、とりわけ余計な装飾のない純文学と呼ばれるジャンルを読むことは必要不可欠である。

    確かに言葉も文章も時代とともにアップデートされていき、ひと昔ふた昔前の文学が非常に読みづらく、もはや大衆に支持されるものではないだろう。

    が、それは現代の文章がいく年後には同様に読みづらいと評される可能性を持っていることの示唆でもあり、物語性や装飾にこだわった文章は、文自体の美を求めた文豪たちの綴る文章とは性質が違うだろう。

    確かな技術で裏打ちされている言葉を文脈から(辞書をひくまでもなく)感じ取り、自分のものにしていく行程は今の時代だからこそ大切だと僕は信じたい。

    現代人の感覚に合わせた様々な解説書が出てきていても、古典と呼ばれる偉大な哲学書の源流を、一度は自ら汲み取ることが大切であるのと同じように。

    何よりも、こうしている間にも言葉がまず先に浮かんできて、感情や事実はその後に付随してくるものなのだから、物語の始まりはいくらあっても損はないだろう。

    余談ではあるが、僕が密かに読んでいたブログがあるので以下にリンクを貼っておく。

    100年前の、中学生から始まり高校生半ばまでのとある少女の日記が載せられている。

    これを読み、日本語の失われつつある美しさ、明晰さを少しでも体感できることを、数少ないこの場の読者に願う。

    https://www.tokushoji1476.com/blog/categories/百年前の今日

  • memory12

    memory12

     寒風はびゅうびゅうと音をたて、ぼくの手の温度を奪っていく。ただでさえ固いライターのスイッチは、両手じゃないと押せないほどにかじかんでいた。くしゃみをひとつ。勢いよく息を吸い込むと、いつも住んでる街とは無縁の、なんというか山とは違うなまっぽい香りで胸がいっぱいになる。これをしおの香りというらしい。いそくさい、という言葉も同じ意味だと教わった。どこかなつかしく感じるのは、海はいのちのスープで、すべての生き物は海の中から生まれたと、大きな図鑑で読んだせいだろう。

     道のわきにおなじ間隔で並べたローソクの列をぼんやりと見やる。歩く人影はまばらで、ローソクを前に座り込んでいる人もいる。自分がどうしてこんなところで、こんなことをしているのかよくわかっていなかった。ただ、足元の不恰好な形をしたローソクに火を灯していくのが今やるべきことらしい。しゃがみこんで…カチリ。音が鳴ると筒の先からひとつぶの火が顔を出すが、しお風を浴びるとすぐにひっこんでしまった。…カチリ。…カチリ。何回かつけると、ようやくローソクにあかりがともる。まだ空はうすら明るいので、あかりの境界線はあいまいだ。顔をまじまじと近づけても熱さはほぼ感じない。しばらくしてから、横のローソクに移動してあかりをつけていく。

     つけていくうちに、あかりはどんどんその存在をくっきりと際立たせてくる。気づけば周りは暗く、道には小さなあかりがゆらゆら連なっていた。けれど、等間隔ではなく、ツッ…ツツツ……ツーッと不揃いに並んでいる。あかりをつけているのに夢中で、何個か消えてしまっていることに気づいていなかった。少し戻ってつけなおそうと思い立つが、寒風は暗さをはらむことでいよいよ突き刺すような感覚を身体に送り込んでくる。空気に溺れそうになっていると、ふと甦える。宿にいた、自分と同じぐらいの大きさの、金色に輝く毛皮の動物。彼らが、柔らかく弱点でもあるお腹を見せるのは信頼のあかし。恐る恐る手を近づける。加減がわからず、傷つけてしまいそうだから。手が触れる。1秒、2秒、3秒。どうやら大丈夫らしい。なんだかむずがゆい気持ちで抱きつき、お腹に顔をうずめる。なまっぽい香り。顔を少し横にずらして耳をあてると、いま風に乗って聴こえてるのとは違う、いのちの音がしていた。

    数年後、宿の犬が亡くなったと聞いたのは記憶違いか。冷たい潮風の猛々しさ。犬のしなやかで温かいおなかの感触。それは今でも皮膚の裏に残っていて、表から同じ刺激があるとこの記憶が裏から滲み出しているような気がしてならない。

  • issue25

    issue 25

    研いだばかりの鉛筆の切先が、まだ柔らかさを残す手のひらにうずりと入り込み、黒い種子を残す。

    見れば黄色の手のひらにぽつりと黒い点。

    残りの人生をまだ痛みの残るこいつとともに過ごすのかとやや不安になる。

    しかし、申し訳なさそうに残っていた黒い点は手のひらから出て行ったのか、それともさらに奥深くに潜り込んだのか、気づけば跡形もなく消えていた。

    右の大腿をおおきく這っていた火傷痕。

    身長と手足の長さが数倍にもなった今では、目を凝らして見ぬことにはわからないぐらいに小さくなり、体の隅っこで息を潜めている。

    鬼ごっこで駆け回り、膝小僧にできた縫うほどの擦り傷も同様である。

    目に見える傷たちはやがて目に見えなくなっていく。

    それでは最初から目に見えない傷は?

    いつどこでつけたかわからない引っ掻き傷がじくじくと傷んだり、静かにヒビの入る音を人は聞く。

    そしてなんとか日にち薬で癒えてきた傷跡をこじ開け、再びほとばしろうとする鮮血を止めるにはどうすれば良いのだ?

    止め方がわからないので、まぶたを閉じるがそれでも溢れてくる。

    涙は透明な血液だ。