• memory13

    memory13

    「言葉を定義するから意識的な差別が生まれるのではないか?」

    「言葉を定義するから無意識的な差別に気がつけるんだよ」

  • issue26

    issue26

    文章を自ら書き始めてみると、どうにも言葉に置き換えることができない感情や光景、現象にままいきあたる。

    正確にいうと置き換えること自体はできるのだが、出来上がったものは自分が思い描いていたものとは全く違うものである。

    本屋の店頭、目立つところに、正確なタイトルは忘れたが「現代人のための感情を表現する言葉の類語辞書のような本」(あくまで国語辞典とは違う)というのがあったので、パラパラとめくってみるが既に知っている言葉ばかりだった。

    外部に頼るのをやめ、記憶を探り、似たような経験が今までにないか内部に聞いてみても返ってくる言葉はない。

    ただ、表現しきれなかったという、モヤモヤとしたものが胸の内に残る。

    そう、「モヤモヤ」。

    オノマトペという、実に便利な表現しか残らない。

    このモヤモヤを泣いて発散するのは子供までで、いい大人は言葉に落とし込んで納得する必要がある。

    しかし、このことについて考えると、先人たちが残してくれた美麗で、優美な言葉、日本語を我々は失いつつあるといやでも実感してしまう。

    冒頭の、本屋で見かけた本なんかがその例の一部とも感じる。

    現代人にはなくて、皆が欲しているであろうとマーケティングされているもの、現代的に一言で言えば「語彙力」というやつだろうか。

    小さい頃なんかは国語辞典を引っ張り出して、適当に開いたページの言葉を読むなんて遊びもしたものだが、ある程度の年齢にもなるとわざわざそんなことをする人は少なかろう。

    だからこそ、読書という習慣、とりわけ余計な装飾のない純文学と呼ばれるジャンルを読むことは必要不可欠である。

    確かに言葉も文章も時代とともにアップデートされていき、ひと昔ふた昔前の文学が非常に読みづらく、もはや大衆に支持されるものではないだろう。

    が、それは現代の文章がいく年後には同様に読みづらいと評される可能性を持っていることの示唆でもあり、物語性や装飾にこだわった文章は、文自体の美を求めた文豪たちの綴る文章とは性質が違うだろう。

    確かな技術で裏打ちされている言葉を文脈から(辞書をひくまでもなく)感じ取り、自分のものにしていく行程は今の時代だからこそ大切だと僕は信じたい。

    現代人の感覚に合わせた様々な解説書が出てきていても、古典と呼ばれる偉大な哲学書の源流を、一度は自ら汲み取ることが大切であるのと同じように。

    何よりも、こうしている間にも言葉がまず先に浮かんできて、感情や事実はその後に付随してくるものなのだから、物語の始まりはいくらあっても損はないだろう。

    余談ではあるが、僕が密かに読んでいたブログがあるので以下にリンクを貼っておく。

    100年前の、中学生から始まり高校生半ばまでのとある少女の日記が載せられている。

    これを読み、日本語の失われつつある美しさ、明晰さを少しでも体感できることを、数少ないこの場の読者に願う。

    https://www.tokushoji1476.com/blog/categories/百年前の今日

  • memory12

    memory12

     寒風はびゅうびゅうと音をたて、ぼくの手の温度を奪っていく。ただでさえ固いライターのスイッチは、両手じゃないと押せないほどにかじかんでいた。くしゃみをひとつ。勢いよく息を吸い込むと、いつも住んでる街とは無縁の、なんというか山とは違うなまっぽい香りで胸がいっぱいになる。これをしおの香りというらしい。いそくさい、という言葉も同じ意味だと教わった。どこかなつかしく感じるのは、海はいのちのスープで、すべての生き物は海の中から生まれたと、大きな図鑑で読んだせいだろう。

     道のわきにおなじ間隔で並べたローソクの列をぼんやりと見やる。歩く人影はまばらで、ローソクを前に座り込んでいる人もいる。自分がどうしてこんなところで、こんなことをしているのかよくわかっていなかった。ただ、足元の不恰好な形をしたローソクに火を灯していくのが今やるべきことらしい。しゃがみこんで…カチリ。音が鳴ると筒の先からひとつぶの火が顔を出すが、しお風を浴びるとすぐにひっこんでしまった。…カチリ。…カチリ。何回かつけると、ようやくローソクにあかりがともる。まだ空はうすら明るいので、あかりの境界線はあいまいだ。顔をまじまじと近づけても熱さはほぼ感じない。しばらくしてから、横のローソクに移動してあかりをつけていく。

     つけていくうちに、あかりはどんどんその存在をくっきりと際立たせてくる。気づけば周りは暗く、道には小さなあかりがゆらゆら連なっていた。けれど、等間隔ではなく、ツッ…ツツツ……ツーッと不揃いに並んでいる。あかりをつけているのに夢中で、何個か消えてしまっていることに気づいていなかった。少し戻ってつけなおそうと思い立つが、寒風は暗さをはらむことでいよいよ突き刺すような感覚を身体に送り込んでくる。空気に溺れそうになっていると、ふと甦える。宿にいた、自分と同じぐらいの大きさの、金色に輝く毛皮の動物。彼らが、柔らかく弱点でもあるお腹を見せるのは信頼のあかし。恐る恐る手を近づける。加減がわからず、傷つけてしまいそうだから。手が触れる。1秒、2秒、3秒。どうやら大丈夫らしい。なんだかむずがゆい気持ちで抱きつき、お腹に顔をうずめる。なまっぽい香り。顔を少し横にずらして耳をあてると、いま風に乗って聴こえてるのとは違う、いのちの音がしていた。

    数年後、宿の犬が亡くなったと聞いたのは記憶違いか。冷たい潮風の猛々しさ。犬のしなやかで温かいおなかの感触。それは今でも皮膚の裏に残っていて、表から同じ刺激があるとこの記憶が裏から滲み出しているような気がしてならない。

  • issue25

    issue 25

    研いだばかりの鉛筆の切先が、まだ柔らかさを残す手のひらにうずりと入り込み、黒い種子を残す。

    見れば黄色の手のひらにぽつりと黒い点。

    残りの人生をまだ痛みの残るこいつとともに過ごすのかとやや不安になる。

    しかし、申し訳なさそうに残っていた黒い点は手のひらから出て行ったのか、それともさらに奥深くに潜り込んだのか、気づけば跡形もなく消えていた。

    右の大腿をおおきく這っていた火傷痕。

    身長と手足の長さが数倍にもなった今では、目を凝らして見ぬことにはわからないぐらいに小さくなり、体の隅っこで息を潜めている。

    鬼ごっこで駆け回り、膝小僧にできた縫うほどの擦り傷も同様である。

    目に見える傷たちはやがて目に見えなくなっていく。

    それでは最初から目に見えない傷は?

    いつどこでつけたかわからない引っ掻き傷がじくじくと傷んだり、静かにヒビの入る音を人は聞く。

    そしてなんとか日にち薬で癒えてきた傷跡をこじ開け、再びほとばしろうとする鮮血を止めるにはどうすれば良いのだ?

    止め方がわからないので、まぶたを閉じるがそれでも溢れてくる。

    涙は透明な血液だ。

  • issue24

    issue24

    子は親を見て育つ

    親は子を見て学ぶ

    先生とは決して先に生きている者とは限らない

  • issue23

    issue23

    ハンガーが服を縦にする

    マネキンが服を横にする

    生きた人間が服を縦横にする

    アバターが服を平らにする

    が服を線にする

    が服を点にする

    やがて人間は動物に戻る

  • memory11

    memory11

     週末のお店というのは、子連れが多くそれはまるでテーマパークのような様相を示す。おとなしくできない子供たちの迸るエネルギーを肌でいつも感じる。この街がしっかりと生きて、新陳代謝をしている何よりの証拠だ。

     しかし保育園や幼稚園、はては公園までが子供たちの歓声を騒音とし近隣住民からの苦情が上がっているとふた昔前から耳にする。実際、遊具のない公園も増えているらしい(危険だからというよりは、そもそも人が集まらないようにするためなんだろうと邪推してしまう)。

     その日は忙しい時間帯も過ぎ、のんびりと接客をしているとどこからかか細い声が聞こえてくる。消え入るような声は初め聞き取れなかったが、発生源を探しているうちに音が意味を持ち始めた。パパを探している迷子のようだ。比較的長く在籍しているこの店で迷子は今までいなかった。親を探す甲高い声とそれに遠くから応える低い声のやりとりを聞くことはあったが、今回の弱々しい放物線を描くボールを受け止める存在はいなかった。

     多少焦りを覚えて通路を覗いていくと、3歳ぐらいの子供がいた。下を向いて座り込んでいる。泣いてはいなかったが消え入るような声はそこから流れていた。急いで、しかし怖がらせないように近づいて声をかける。やはり迷子だった。しゃがみ込んで目線を合わせると、子供の見る世界は何もかもスケールが大きい。大きな丸い瞳は不安げに揺れていたが、真っ直ぐにこちらを見ている。受け答えもしっかりとできる子だ。ちょっと待っててねと言い店内を改めてぐるっと回ってみるが、老人や女性がほとんどで、あとは若そうな男が日用品を抱えて静かに物色しているだけだった。子供を探すそぶりを見せる大人はいない。元の場所に戻り一緒に探そうかと言うとその子は頷き、後ろを素直についてくる。後ろからついてきているか気にしつつ進む様は昔のRPGを思い出して変な気分になる。しかし、初対面の子供にはいつも泣かれたり隠れられている身からすると、あまりの素直さとこの子の名を呼ぶ存在が一向に現れないことに違和感を覚え始める。ひとまずレジの方に向かうと、子供はすっと腕を上げ人差し指を伸ばす。そして、小さく、

    「パパ」

    とだけ呟く。その先には会計をしている老人とレジに並ぶ先程の若い男しかいない。あの人が?僕は思わず何回も聞き返してしまうが、その子はパパに駆け寄ることもせず、指をさしながらひたすら同じ言葉を繰り返している。戸惑いつつも短い旅路になったことに安堵する。レジまで連れて行くがやはりその男は一向にこちらを見ない。子供はパタパタとパパの足元へかけていく。予想はもうついていたが、そこに言葉のキャッチボールはなかった。よその家庭はよそだ。干渉するものでもない。役目を終えた僕は後ろ髪を引かれる思いでその場を離れる。パパと呼んだ男の足元からこちらをじっと見ていたその子の視線が、背中を向けても感じる。

  • memory10

    memory10

    手で仰いでみるが特に香りは感じられ無い。鼻で直接かがないようにする癖が抜けておらず、店主にもっとぐっと香るように勧められる。思い切って鼻をガラス瓶のなかに突っ込む。なるほど、確かに茶葉とは思えない、瑞々しい果実や蕩けるような花の香りが肺を満たしていく。

    次いで、小さなガラスの茶碗に満たされた琥珀色の茶をもてなされた。ありがたく頂こうと口元に持っていくと、先程感じられた香りが液体からほとんどしない。はてなと思いつつ口にすると、香りが鮮烈に蘇ってきた。面白いことに、飲み込んだ後も香りは鼻と口から出ようとせずスーッと余韻が伸びていく。店主は見透かしたようにその香りのことを「○×△」と言った。中国語だったので正確に聞き取れなかったが、この現象にも名前があり、それを愉しむ世界があることにどこか安堵した。中国の茶碗が一般的に小ぶりであることも繋がったような気がする。

    店主はそんな僕らの様子を満足げに見つめていたが、おもむろに藍色に染まった衣を脱ぐと「香 港」と胸元に大きく書いてあるジャージを着ていた。

    始まりから終わりまで、なかなかにやり手である。

  • memory9

    memory9

    南南東微南、165°

    地図で恵方を眺めてみると平等院が目に入り、あとは青々とした山岳地帯。

    日本を抜けるとひたすら海しかない…と思いきや、途中、白い点が見える。

    拡大してみると、「グアム」。

    こんなところにあったのか。テレビで見るようなリゾート地が脳裏をよぎる。

    意外な発見に少しばかり浮き足立ち、さらに恵方の奥地(海?)へと進むと、灰色のエリアで地図は動かなくなる。

    おや?と思いよく見ると、「南極」。

    とくにこれといった情報は地図に示されず、灰色のまま南極は沈黙している。

    旅路が存外すぐに終わってしまった味気なさと、親指数往復で世界を知れてしまう(気になる)現代に、ある種の不気味さを感じてしまった。

  • memory8

    memory8

    無心で走っていると、今までに走ってきた経験の断片が、ワッとフラッシュバックすることがある。

    思い出や記憶とはまたどこか違う。懐かしみながら、連想ゲームのようにたぐり寄せて意識するわけではないので、おそろしいほどに一瞬。右足が踏み込み、地面を蹴り上げ、左足もまだ着地しない、身体が完全に宙に浮いてる刹那ほどだ。

    そしてその感覚は大学生、高校生、中学生とどんどん過去へと、過去というよりは走ることをまだ、ありのままに受け入れていた経験へと遡っていっている。

    事実を生のままで受け入れ経験し、哲学する。純粋。原体験を重んじ、美意識となす。大抵は同じことを、あの手この手でこねくり回して言い方を変えてるだけなのかと薄々気づき始めたので、古典にもようやっと手を出そうかと思えるのだった。