• issue31

    issue31

    遊郭通いの彼は言う。

    哲学、道徳、芸術、宗教が人としての在り方だと。

    なるほど、確かに、私が芸術にただ恋い焦がれていたのは、人として在りたいからだったのだ。

    しかし彼は続けて言う。

    それでも芸術はあくまで趣味を通じて存在を翫賞するだけで、根本的に存在を会得するには哲学が必要なんだ。

    哲学だけじゃない。道徳も、宗教も。

    私はせいて、彼の言葉を継いで言う。

    人間はどれかが欠けていると、それを世間というものに翻弄されてしまうんだ!

    発した音は分厚いワタのような空間にしんしんと吸い込まれていく。

    返ってくる言葉はまだ、ない。

  • issue30

    issue30

    物体には全てインリョクがある

    地をふみしめ

    朝と夜が入れ替わり

    四季が移ろい

    潮が満ちてはひいて

    星空がプラネタリウムのようにまわる

    そして星たちは近くなりすぎると、お互いの質量でお互いをほろぼしてしまうという

    それを初めて見たのは銀河鉄道が出てくる漫画だった

    ぶつかり合い細かく弾け、星の死骸たち

    その死骸たちが煌めく様を見ていると、人間は心に涙を覚える

  • memory19

    memory19

    写真には眩しそうにしかめ面をする人が映っている

    次の写真に目を移すと今度は別の人の横顔が映る

    残りの写真も登場人物は二人、交互に出てきている

    そして最後の写真には質素な建物をバックに、二人が並んで映っていた

    これらの写真は白黒なので、朝なのか昼なのか、夕方なのか、晴れているのか曇っているのかわからない

    どんな色の服を着て、どんな輝きの車に乗っているのかわからない

    露出を間違えているのかやけに白飛びもしており、認識するのに必要最低限の時間と空間しかそこには存在しない

    それでも写真を撮っている人の呼吸、シャッターを切る時の緊張、撮り終えた満足感にカメラを下ろし、駆け寄る姿が情景として浮かんでくる

    綺麗に撮れただろうか?綺麗に写っていただろうか?心の中でほんのちょっと前のことを反芻する

    レンズを通して分断されていた二つの時間はまだ少しばかりはにかみを含みながらも、また一つに戻っていく

    この写真は、現代人にはもう撮れない

    例えまだ撮れたとしてもいずれ、その日はやってくる

  • memory16-3

    memory16-3

     ここからが今回の旅の本来の目的である。懐に忍ばせた本の名前は「本屋という仕事」。本屋による本好きのための本だ。今回巡った東京の本屋にも置いてあるのもよく目にしたが、こんなのを本屋で手に取るのは同業者か同業者予定の人たちぐらいな気がする。つまり僕は本が好きであり、さらにこんなご時世に本を売る仕事を細々としたいと決意している。実際は本だけでなく他ジャンルの商品も手狭に取り扱う予定なので「本屋」と名乗ることはあまりないかもしれない。やるからには実店舗を持つことの意義、モノをどんな客層に、どんなプラスの価値を与えて売るのか。売りたいのか。仕事をしながらもどんな時も頭を悩ましているが、なかなか答えは見つからない。むしろ見つかるぐらいならそれまでだと今は割り切っているが、考えることは単純に、そして純粋に楽しいことに気づかされる。

     本来の仕事も勿論好きなところもあるし、人の役に立っていることは無上の喜びである。しかしこの業界はどうやって売るかばかりに目がいって、そのモノがその客に本当に必要なものなのか、大半が一期一会な関係性の中であまりにもその感覚が薄れているような気がする。ましてや企業が広告に多額を注ぎ込んで中身は眉唾な商品を大大的に売っているところを見ていると、店頭に並んでいる=いいモノではないし、売られている=いいモノでも決してない。悲しいかな、大人が言うことは全部正しいと思っていたあの頃の純粋な僕らではもうないのだ。

     以上の文は5月に書いたものだが、この時と今の状況はかなり違う。SNSを見ていると、予想以上に独立系書店が多い。新たに開店しているのも多い。もともとの本屋が減少する勢いも凄いので、バランスは取れているのかもしれないが果たしてこの状況下で何のバックグランドもなしに店を開くことは正しいのだろうか?個人だからできることを皆でこぞってやれば、レッドオーシャンになることは必然だ。実際、独立系書店に置いてある本は似通ったものが多い。勿論、採算度外視でやっていくつもりだったがその自信と勢いも少し下火になってしまった。現在、新たなご縁で予想だもしない道を迂回していく、ーこれが本来の道かもしれないがー自分でもどうなるか一抹の不安を感じるが、まあ人生はこんなものだろう。60歳まではリハーサルだ。

     

  • story4

    Story4

    穴があいている。

    言葉を口から出してみる。

    床に穴があいている。

    こぶし大ぐらいのその穴は、部屋の床を覆う畳に忽然とあらわれた。まだ寝起きの頭は状況を把握できていない。いぶかる前に好奇心が体をその穴に引き寄せる。なぜなら、ぽっかりという言葉が似合うほど、その穴と畳の境界線は綺麗だ。まるでよく切れる包丁でくるりとくり抜いたかのように。薄い畳の断面が途切れるとあとは灰色の、おそらくコンクリが続いている。私は急いでお風呂場へ向かい、常備してある水泳用のゴーグルを装着する。ろくに調整もしていないので目がみちみちと見開かれる。髪の毛がゴムともつれあい多少違和感はあるが、今はそんなことは二の次だ。そしてその姿のまま穴の前に戻る。手には読書灯。好奇心と恐怖で指先が震え始める。恐る恐る穴の中を照らしてみるが、底はよく見えない。漫画や小説のように別の世界が広がっているとか、誰かがこちらを覗き込んでいるということもなかった。勿論、窃視者の目玉に襲い掛かろうと棒状のものが穴から暴れ出てくることもなかった。

    なぜこんなところに穴なんかあいているのだろうか?

    安堵が体の中心からひろがり穴への興奮が失せると、遅れて疑問が湧いてくる。顔をあげて周りを見渡すが、いつもの見慣れた部屋でとくに変わりはない。穴の前であぐらをかいて記憶をたどる。物を落としたからといってこんな穴はあきようがない。ああでもないこうでもないとうなっていると、外から雨の音に混じって工事の音が微かに聞こえてくる。ずっと空き地だったところがようやっと開発されることになったのだ。棒が地面に突き立てられ、ぐるぐると回転しているところが脳裏に浮かんでくる。理科の授業でジャージ姿に竹刀を持つ教師がやにむに思い出される。確か、地層についての内容だったろうか。

    記憶を頭の中で投影していると唐突に映像がふっと遮断される。いやまて、もしかしてこの穴はここが始まりではなく、上から下へ棒状のもので貫き、くり抜かれたのではないか?おそるおそる天井を見上げてみる。が、いつもの白い天井が広がっているだけだった。そこには私のように覗き込むような目も、穴もなかった。

    枕元の携帯が鳴る。そうだ、今日は仕事だった。とにかく準備をしないと。携帯のアラームを止めアップデートされた情報を頭の中に上書きしていくが、その間も意識は目の前の画面ではなく穴にあった。そのままにしておくのはなんだか気分が悪かった。スーツに袖を通しつつ、台所からボロボロの老兵さながらのまな板を持ってきて穴に蓋をした。畳の上にまな板がある図はシュールだったが、違和感があるほうが忘れずに済む。

    扉を閉める時も後ろ髪を引かれる思いだったが、仕事には行かなければ。チリチリとした焦燥感を胸に部屋を後にする。そういえば、部屋の鍵はなかったがどこに行ったのだろう。まあ、今はそんなことは、二の次だ。

  • memory18

    memorie18

    仕事をし、本を読み、音に触り、店を周り、物件を探し、話を聞いて、夢想する。

    この街に住みつくようになって早10年。

    もともと母方の祖母が「京オンナ」だったことや、その父(僕からみた曽祖父)が同じ大学に通っていたこともあるのか、初めから違和感や疎外感はなく溶け込んでいる。

    溶け込めているつもりでいた。

    自分のやりたいことを追い求めるために違う視点でこの街を見つめる。

    そしてハッとする。

    今までに感じたことのなかった違和感。疎外感。不安。

    東京はオープンだ、しかしこの街は違う。

    観光客、よそ者と言うジャンルに甘んじていたけれど、いつまでもこうはしていられないようだ。

  • issue29

    issue29

    ミギャアオミギャアオ

    聴き慣れない音がhibariを抜けて耳に届く

    道の反対側には大きく「鬟滄カ」の文字

    視線を足下に戻すと黒色でも灰色でもない、琥珀色の羽が落ちている

    『いただきます〔連語〕食事を始める時に感謝の意を込めてする挨拶の言葉』

    辞書にもしっかりとこの言葉は載っているが、不思議と誰への感謝かは書いていない

    いずれにせよ、世界の大半が話す中国語、英語にはこれに相当する言葉はないという

  • memory17

    memory17

    ネパール料理屋は落ち着く

    メニューを眺めている間、眠そうな男性店員はボールペンをカチカチと鳴らしてその感触をもてあそんでいる

    カレーといえばインドを思い浮かべてしまうが、昔のカレーのCMでインド人もびっくり!のようなフレーズを使っていたのが根深く影響しているのだろうか

    子供の甲高い一声が店の奥から響き渡りレゲトンに乗せていかにもなインド然、ネパール然とした音楽が流れる

    頼んだザクロのラッシーは姿は同じだが喉がやけるような甘さのマンゴー味を隠れ蓑にして出てくる

    無理矢理狭いテーブルに料理を次々と乗せるものだから食器が他の食事を少しかじりとっていく

    辛さはいつも中間。ネパールと日本の狭間

    記憶よりも大きいナンを黙々とちぎっては食べを繰り返していると、足元に小さい車がコツンと止まる

    小さい救急車

    やってきた方向を見やると5歳程度の子供が床に座ってこちらをにこにこと見ている

    Okay, I got it.

    伝わってるかわからない拙い英語と共に車を子供に向かって発進させる

    英語を喋る時その言葉はただの音の連なりでしかなく、その言葉を喋る時僕は外人然として別人のようになる

    子供と僕の間の半分で車が緩やかに止まってしまったのは大人と子供の差だろう

    隣のテーブルではオーダーを再度取り直している男性店員が女性店員に異国の言葉で、おそらくたしなめられている

    子供はにこにことしたまま車を取り、またこちらに向けて走らせる

    しかし今回は勢いがよすぎて救急車は途中で斜めに傾き横っ腹を擦りながら回転して止まる

    僕はOhhhと言いながらその車を立たせてやり、うまく指先で回転を加えて横転せずくるくると子供の元にまた発進させた

    その光景に目を輝かせて、その子供は床で車を回転させ始める

    救急車はくるくると回る

    正確には救急車の形を模した四角い固形が回る

    ネパール料理屋は落ち着く

    純粋で朗らかで、細かいことを気にしない

    これが先入観だったり、文化をネパール料理屋の彼ら個人に着せているだけなのかは正直わからない

    彼らも自分たちがこの国でどのように見られ、それに合わせて仮面をかぶっているだけかもしれない

    僕はネパールという国に行ったことがない

    四角い固形はくるくると子供の元を離れて、救急車にまた戻って僕の足元に落ちていた

  • memory16-2

    memory16-2

    友人がエドワード・ゴーリーの展示会の存在を知らせてくれたので、2日目の始まりはこの展示へ足を運ぶことから始まった。

    エドワード・ゴーリー。「うろんな客」という絵本が日本では大人も読める絵本として有名であり、僕もその事実を知るぐらいでその他のことは正直一切を知らなかった。前情報も少ない展示に臨む、これぞシンクロニシティの一端。

    展示会の看板とチケットは少し暗めの青色をしていて、その日猛暑日を記録した朝には適度な涼しさを足してくれた。

    入ってすぐのところに物販コーナーがあるのは驚いたが、あとの楽しみとして残しておく(給食ではいつも好きなものは最後に残していた。それは今でも変わらないのだが、みなさんはいかがでしょう)。

    平日の11時ぐらいに訪れたものの既に会場は人の呼吸、衣が擦れ、足を静かに運ぶ気配で満ちていた。美術館特有のこのしんしんとした空気は、時の流れを忘れさせてくれる。だからこそ美術(二次元)を画面(二次元)でみるだけでなく、空気(三次元)を感じにみな美術館に足を運ぶのだろう。

    細かい内容に関しては割愛するが、印象に残ったのは

    ・ゴーリーの「生まれ変わったら石になりたい」という言葉

    ・「源氏物語」をゴーリーは読んでいたこと

    ・「蒼い時」という絵本

    ・上記の絵本の中にヘンテコな日本語があったこと

    展示会のチケット、看板の涼しげな青。実際には「蒼」は、この絵本からきていたのだろう。蒼を背景に不思議な二人がよくわからないことをよくわからないシュチュエーションとともに綴る。物販にもしも「蒼い時」の絵本があれば買って帰ろうかと思ったが、やめた。そもそも置いてなかった(!)のと、この蒼色、ある1ページはゴーリー本人が彩色したものだが残りは印刷会社がその色を参考にして色をのっぺりと置いていただけらしい。うーん、なんとも…。

    タロットカードはかなり後ろ髪を引かれる思いをしたが展示も物販も一通り見終えて次の目的地に向かう道中。SNSで数字だけはやけに多い、酒場のトイレに貼ってあるようないい言葉風の呟きが届く。少しばかり、頭の中に蒼色が入り込んでくる。あの二人の影がちらつく。

    うーん、なんとも、SNSの影響は悪い面が多い気がする。

  • memory16-1

    memory16-1

     半年ぶりに東京へと戻った。仕事終わりに家に帰るや否やカメラと下着と上着、靴、ズボン、1dayコンタクト、タブレット、日傘、ノートPC、メモ帳とペンをぽいぽいとアタッシュケースに放り投げていく。軽快に積み上がっていく荷物たち。そして毎回最後まで悩むのは、旅を共にする本の選書だ。現地で仕入れるのも考慮してあまり数は持っていけないし、そもそも自分の性格上あれやこれや持っていっても全てを読むことはできない。読みかけの本はたくさんあったが、どうせなら今回の旅(という名の帰省)に合ったものにしようと思い、「本屋という仕事」をバッグにそっと忍ばせて部屋を後にした。

     実家に戻るのは大抵年末年始で、特にこの2〜3年はコロナの影響もあったので今回は人の数の多さに改めて面食らってしまった。既に京都も観光客の入りがほぼ回復し、ただでさえ細い路地が、所狭しと人で埋め尽くされている。とは言え、やはり東京は京都と違ってうねるような人の黒い波と、鈍く光る建物が上から降ってくるような圧迫感がある。そして、若い美男美女が多い。男も女も白い肌とすっと伸びる鼻、薄い唇。つぶらもしくは切れ長な瞳。ファッションも含めて、まるでSNSで有名な人たちが画面から飛び出してきているようだった。こんなにも多いと感じるようなことはあったろうか。マスクを外すことで魅力が引き立っているのだろうか?しかし、感心する一方で、異国…いや、異星の地に降り立っている感覚がしてきたのだ。「異星」と表現したのは脳裏に浮かぶ銀河鉄道999の影響だろう。

     主人公の鉄朗は生身の人間で、機械の体を貰いに謎の美女と星々を旅をしているわけだが、人間と機械人間では容姿に性能、生存力どれをとっても機械人間のほうに軍配が上がってしまう。みんな同じ甘いマスク、すらりとのびた四肢。身長も低く扁平足な鉄朗はことあるごとにそんな機械人間から人外(ペット)扱いされてしまうわけだが、彼の物語は語り尽くせないので是非ともご拝読していただきたい。僕がここで言いたいのは、東京に美男美女が多いのはなぜなのか。生まれ持ったものもあるし、努力による変化もあるだろう。美の尺度や基準は無論、時代や文化により変わる相対的なものだが、SNSの普及で人に見れらることが当たり前となっている。そして美の基準が均一化されているのが理由の一つにないのだろうか。前向きな美であるのならそれはいいのだが、少しでも自分の欠落を埋めるための外装というつもりがあるのであれば、どうかそれだけに囚われないで欲しい。生き物らしく大いに食べて寝て外見に囚われず己を貫く鉄朗は機械人間よりもよっぽど魅力的だからだ。