どうもやる気が出ない
そう言うと弛緩した空気がまどろみでる
きょとんとした顔を見せるとそれが休みの日だよと返ってくる
確かにそれが休日というものか
悪食のように手当たり次第に手にとっては胃袋に納めようとするのに必死で基本的なことを忘れていたようだ
どうもやる気が出ない
そう言うと弛緩した空気がまどろみでる
きょとんとした顔を見せるとそれが休みの日だよと返ってくる
確かにそれが休日というものか
悪食のように手当たり次第に手にとっては胃袋に納めようとするのに必死で基本的なことを忘れていたようだ
星座はオリオン座しか覚えていない
真ん中の三つは我ら三兄姉弟なのだから
見上げたあの頃の登り坂と下り坂を覚えている
確かに覚えている
『働くことは人間の、男の罪女は腹を痛めて子を産むのが罪
日曜は休む
神様は地球を作るときに六日働いて一日やすんだから
父のルール
父の姿を見て子は真似る
タンパク質
牛乳飲め』
これはある人が走りながら指を走らせたメモ書きの内容だ。これを書いた人は昨今のプロテインブームを嘆き酪農家の現状を憂える結果に至ったのだろう
イエス・キリストは磔刑に処された。
十字架には数種類あるが、彼が運び張り付けられたものはアルファベットの「t」だった。
「t」の利点は頭のうえにちょうど罪状を張り付けられるような形をしていることだ。
そしてイエス・キリストの頭上に掲げられた紙には「ISNI」と書かれている。
最近のinstagramのプロフにも、大文字のアルファベット4文字が張り付けられていることが増えた気がする。
信仰心の厚さから発せられるわけではない、恨みのこもった叫び声が聞こえてきそうなものだが、特段、磔刑やイエスとは関係なさそうだ。
久方ぶりに美術館に足を運んだ。
鉛筆でメモを走らせる人も、
耳打ちしてお互いの意見を交換する人も、
撮影可のエリアに入るととりあえず写真を撮っておく人も、
解説の文にかじりつく人も、
恋人の横顔ばかりを見てる人も、
わからなかったのがわかるかもと販売所で図録に手を伸ばす人も、
こうやって人間観察に励む人も、
何が正しいかとか、そんなことはない。
それがアートなのだろう。
「■■■■■■■■■」
「私にはよく眠れる薬が欲しいです」
「△△△?」
「■■■■■■」
「■■■■■■■■■■■■■■ハバラヒリ■■■■」
「△」
薬のほうがいいですか?
■■■■■■
「■■■■■■■」
「より強い薬があればそれがいい電話です」
彼は少し肩を竦めて首を横にふる
私は微笑み、しばらく逡巡する
これが一般的な薬です
■■■■■■■■
「■」
「△△」
アンドロイドは電気羊の夢を見るのだろうか
夢を見るために寝、寝るために夢を見る
Mr.
Miss.
Mrs.
man
woman
human
主人
旦那
夫
家内
奥様
日本人は何を考えているかわからない
日本人は素直じゃない
日本人は本心をなぜ言わない
ジェンダー問題に関心のある人間が人種を主語に置くのはどうかと思うが、そんな感情を会話の端端で感じるし、実際耳にする。まるで自分が責められているようで耳が痛いものだ。そんなことを言われてもここは日本だし、貴方がいるのはそんな日本なのだから仕方ないじゃないかとも思うが、そんなことを言えばあれよあれよと格好の的にされてしまうので口をつぐむばかりだ(このやり方がすでにJapanese likeなのだろう)。
とは言え、自分自身もそう言われてしまう理由が漠然としているので、日本人のこのイメージについて考えてみる良い機会かもしれない。
まず何よりも、そんな日本人がシャイであるのは人種云々の前に個々の性格が起因しているのは言うまでもない。小さい子に接する機会がこの歳になると増えてきたが、すでにこの時点でせかせかと動きまわり思ったことをすぐに口に出せるわんぱくな子もいれば、じっと様子を伺う物静かな子もいる。そのまま成長すれば後者がいわゆる日本人らしい奥ゆかしさを代表しそうに思えるが、実際にはそこから育つ環境によって如何様にも姿は変わる。遺伝と環境どちらの影響が大きいかまでは断言できぬが、海外の人が「あなたは〜」ではなく「日本人は〜」と主語を大きくして言いたくなってしまう原因は、個々の遺伝というよりは日本という環境によるものなのだろう。
環境にも宗教、社会、民族など色々な要素があるが、1つは神道の影響だ。八百万の神という言葉はだれしもが一度は耳にしたことがあると思う。簡単に言えば万物には神様が宿るから、物は大切にしようという教訓だ。その考え方に高い親和性がある日本人は言ってみれば元々は多神教だ。そして良い神も悪い神(人にとって)も両方とも同じように敬い、奉り、おもてなしをする。両方というのが肝である。自分たちにとって良い神をもてなす分には多少の緊張感はあれど和やかなムードで時はすぎるだろう。しかし、悪い神をももてなすというのはどうだろうか。僕なら笑顔はひきつり、指は膝の上でまごまごと衣服をつまみ、時計があれば見る見ないの葛藤でそれどころではない。しかし外面的には良い神と同様、もてなすムードを出さなければならない。千と千尋の神隠しを観たことのある方なら、オクサレ様のエピソードを想像すればわかりやすい。強烈な悪臭に髪を逆立て目をひんむきつつも、おもてなしをする。そして神がお帰りになり、やっとひと息をつける。
ここで言いたいのは、自分たちにとって悪いものも表面上は受け入れ、もてなそうとする精神が日本人の根底にはあることだ。世界の大半を支配するキリスト教とイスラム教は一神教だ。唯一のGod。故に他の神は良い悪いに関係なく、認めない。これが他国の人から見て日本人のYes or Noが曖昧だったり、本心がよくわからないという感想に繋がる。この日本人に特有と思われがちな二面性にも神道は一役買っていると僕は考える。というのも、キリスト教の聖典と呼べるものはユダヤ教の旧約聖書を土台にイエスキリスト以降の新約聖書が新たに追加された二段ロケット方式であるのに対し、神道は「表」の古典とそれを補う形の「裏」の古典が存在しているからだ(正確には神道には経典と呼べるものはないらしい)。
まあ、そもそも、人間は話す相手によって自分を変えていくものだし、こんなこじつけをする必要もないのだが…。
もう1つは民族性だ。参考になりそうなものに有名な『菊と刀』がある。実際に日本でフィールドワークをしてないということで信憑性には欠けるが、それでも興味深い内容もある。日本には「恥の文化」があるらしく、キリスト圏でみられる人に懺悔(罪の告白)をすることで罪が赦されるという「罪の文化」とは全くの逆である。罪や弱みを人に知られることは(当時の)日本人にとって恥なのである。罪を憎んで人を憎まずとはよく言うが、恥を憎んで人を憎まずとは聞いたことがない。そんなことになれば人が恥を隠そうとするのは自然な流れだ。話は少し逸れるが、先日やっと初めて観た戦場のメリークリスマスでも日本兵が「恥」という単語を使っていたのを思い出す。日本男児の恥。世間の恥。なんともまあこれまた大きくもあり、あやふやな主語である。当時の戦前戦時中の日本の右向け右ぶりは現代の我々から見ると異常にみえるが、はたして現代の我々は、未来の我々から見られた時に異常ではないと言えるだろうか?外部からの多様性の奔流に右往左往している、まさに変化の最中ではあるがそれでも因習は根深く残っている。例え内心では違うことを思っていても世間を気にし、空気を読むことで周りに合わせた曖昧模糊な言葉を出す。これが日本で生きていく術なのだから仕方ないこととはいえ、結果として海外から見ると日本人が自分の意見を持たない人種と思われてしまうのかもしれない。
以上のことから、冒頭のような身に覚えがあって、しかしはっきりと頷けない言葉を言われることになってしまうのだろう。ちなみに、神道について言及したが、日本人無宗教説と言う本を現在読んでいる。このテーマもよく考えることだったので、少しずつ読み進めている。日本人は無宗教である、無宗教ではない、と結論づけるものではないが、先人たちが同じ問題で悩んでいたことがよくわかる一冊になりそうだ。