• memory22

    memory22

    平らな人工物の上で、虫がもがいている

    もがくのは天地が逆さまになっているからだ

    一度世界の理からはみ出てしまうと、元に戻るのは今のご時世、彼らにとっては困難だ

    このまま干からびるか突然の暴虐にみまわれるかは時間の問題だった

    もがく手足に指を添えると機械的な動作でしがみついてくる

    ちりちりとした感触が肌理を這う

    カンダタが散々人を殺して蜘蛛を助けることで死後情けをかけてもらうように、情けは人のためにはならないが虫のためにはなるのだろうか

    自然の木肌に彼を解放してその場を立ち去る

    翌日、なんとはなしにその木を覗いてみるが抜け殻は特に見当たらなかった

    翌々日、同じ道を歩いていると足元から音が飛び立つ

    その跡を覗き込むと、そこには抜け殻が一つ、綺麗に平にならされた人工物に必死にしがみついていた

  • memory21

    Memory21

    曲げるとぱきぱききと音を立ててその輪郭を暗闇に現す棒状の物体

    青、黄色、ピンク、赤、緑、紫、オレンジ

    夏祭りでは絶対に欠かすことのなかった色

    名残惜しさから冷蔵庫に入れるが最後には消えていく色

    この色を忘れたていたことを思い出した時、人は大人になっていたことを悟るのだろう

  • memory20-2

    memory20-2

    時系列で話していこうと思ったが、人物に絞って話した方がまとまりが良さそうなのでそうすることにした(あまり細かく話して映画の意義を損なわせ、訴えられるのも嫌なので)。そして、まだ一度しか映画を観ていない&君たちはどう生きるかの原作と呼べる物を読んでいないため、描写や記憶に違いが発生している可能性もあらかじめお断りしておく。

    以下、映画を見ていない人は読まないように。

    ちなみに、前回のは此方 https://february-30.com/memory20-1/

    【1】ナツコ

    この物語はマヒトが異世界へと誘われることで大きく展開していくが、その展開に拍車をかける存在がナツコだ。それと同時に、話をややこしくしているうちの1人でもあるので、まずはこの人物を中心に考察しようと思う。

    マヒトが異世界に踏み込むきっかけとなったのは、つわりに苦しんでいるはずのナツコが森に消えていったことだ。のちに、ナツコを誘い出したとマヒトはアオサギに詰めるが、私にそんな力はありませんとアオサギはいう。

    それならば何故ナツコは森へと向かい、異世界の産屋に引きこもったのか?

    これを紐解く鍵は三つ。

    一つ目はキリコの発言。マヒトを引き留める際、血縁者にだけ声が聞こえると言う。そしてそれは罠だ、と。この声がアオサギのものなのか大叔父のものなのかははっきりとしないが、それならナツコもマヒトと同様に大叔父の血縁者であるので何かしらの声が聞こえるはずだ。冒頭でアオサギのことを「覗き屋の」アオサギと呼んでいるので、何かしら普通ではないと感じていたのだろう。アオサギは誘い出したのは自分ではないと言うが、「アオサギが言うことは全部嘘だというのは本当だ」のようなニュアンスのことを言うので、大叔父が直接誘い出したというよりはアオサギを通じてマヒトと同様にナツコを誘い出したのだろう。

    二つ目は森に入っていくタイミング。マヒトは父に何回か催促されようやくナツコのお見舞いに行くが、一度挨拶するとすぐに帰ってしまう。その後、弓矢作りに夢中になるマヒトを尻目にナツコは森へと消えていく。新しい母として頑張ろうとはしても、姉の代わりになりきれないのだろう。転校早々喧嘩をし大怪我をして帰ってくるマヒトに戸惑いと悲しみも感じていたかもしれない。マヒト側もナツコを母とは認めれず、距離感を持って接している。実際マヒトは塔に入った後、ナツコのことを聞かれても母親とは説明せず父が好きな人としか言わなかった。そんなナツコとマヒトのすれ違いにアオサギを通じて知った大叔父は、なかなか思うように塔の世界へ来ないマヒトを誘き出すためにナツコに語りかけ(もしくは一つ目の鍵で説明したようにアオサギが)、現世から離れた塔の世界へ来るように仕向けたのではないだろうか。言うなれば奥さんが実家へ避難するかのような感覚…?

    そしてマヒトがナツコを追いかけてくるのを大叔父は確信していた。何故ならマヒトにはナツコが自分の母と重なっていたからだ。その描写はいくつかある。塔の中に入ると、アオサギはソファの上に横になっている人がオカアサンだと言う。つかつかと歩み寄り背中越しに横顔を見るとマヒトは涙を浮かべ、お母さんと思わず肩に触れ呼びかける。しかし、服装は森に入っていくナツコと同じ物で、アオサギの言うオカアサンがその場面ではヒサコなのかナツコなのかわかりにくく、どちらともとれそうだ。そしてマヒトの位置からは顔はよく見えていないはず。恐らく、ナツコを模した人形?をマヒトは自分の母親と間違えている。間違えてしまうのも無理はない。冒頭ナツコに初めて会った時、マヒトは自分のお母さんとよく似ていると感想を述べているからだ。

    ナツコが塔の世界に来た理由と経緯は二つ目の鍵で推測してみせたように、簡単に言うと大叔父がマヒトを誘き出すため。そして物語の後半でわかるように、マヒトを誘き出したのは自分の後継者になってもらうためだった。しかしそうなると、大叔父がナツコを手厚く保護し、石の産屋にナツコが籠る理由がよくわからなくなる。

    三つ目の鍵はその疑問を解消してくれるはず。つまり、大叔父はナツコをマヒトを誘い出すためのエサにするだけでなく、ナツコの産む子が後継者になりうる可能性も捨てていなかったからではないか?そう思う理由は①インコたちはナツコが子供を宿すから食べることができないと言う②石(恐らく大叔父の意思でもある)がナツコを連れ戻しにきたヒミとマヒトを歓迎してない③初めはマヒトを拒絶するナツコがお母さんと呼んでくれたマヒトに向き合おうとすると、紙の龍がナツコにも襲いかかる。つまりナツコは自らの意思で積極的に産屋にこもっていない④産屋に入ることは塔の世界でタブーとされ、インコ達も入ることができない。塔の世界の殿様は大叔父なので、そのタブーを決めたのも大叔父だろう。

    以上のことからまとめると、大叔父の血縁者であるナツコは新しい子を宿すがマヒトとの関係に折り合いがつけれず、弱っているところに大叔父に誘われマヒトを塔の世界に後継者にすべく連れてくるためのエサにされる。石の産屋で厳重に保護していたのはいずれ産まれる子が後継者になることも想定していたため。となる。情報は少なく断片的であるため空想の部分ばかりになるが、一度映画を観た自分の中ではこうおちついている。しかし、それでも疑問点は残る。

    ・何故大叔父に後継者として呼ばれたのに、大叔父の支配下にあるはずのインコたちが襲ってきた?

    ・何故ナツコやヒミは血縁者なのにそもそも後継者に選ばれなかった?

    ・塔の世界は地獄のような意味合いが深いが、そんな世界で出産をすることは何を意味するのか?

    地獄。輪廻転生。黄泉の国。天照大神。カグツチ。この映画はマヒトの物語でもあり、ナツコの物語でもある。不思議な出来事を通じて家族の絆を作り深める、とも捉えられる。君たちはどう生きるか。次回も考察がたまれば載せてみようと思う。

    〈追記〉

    今回のジブリ映画は余白の多い映画だ。キャラクターのさりげない、ふつっとした独り言のような言葉が未知の世界観を深めている。その世界で生きている人間だからこその、聞き逃してしまいそうなぐらい自然な言葉。それらの使い方が上手いのは魔女の宅急便、千と千尋の神隠しや、ハウルの動く城に通ずるものがある。わからないもの、整合性がないものはこうやっていくらでも考えて補完してみる楽しみがある。

  • memory20-1

    memory20-1

    君たちはどう生きるか

    まだ公開間もないので語れる人もおらず、とつとつと考えたことを残してみる。

    まだ観ていない人は以下は見ないように。

    僕が最初にこの映画のことで言いたいのは、ジブリアニメーションの作画、演出の新しい境地を開始5分の間に目の当たりにしたことだ。唸る空襲警報にすぐさま「火垂るの墓」を呼び起こされる。「となりのトトロ」と同時同時上映された、戦争の渦中翻弄される兄妹の話は戦争の醜さを生々しく現実的に伝えてくれた映画だが、「君たちはどう生きるか」はアニメーションとしての効果を最大限活用した恐ろしさを演出してきた(一回観ただけでは情報が処理しきれずうまく言葉にできないので詳細は割愛)。「崖の上のポニョ」の波の描き方、「風立ちぬ」でもワンカットでの大衆の書き込みの量がアニメーションとして話題になっていたが、今回もいずれそうなるだろう。

    しかし話題になる以前に、今回の映画はあまりにも前情報がない。かろうじてタイトルと鳥の着ぐるみ?を着た人間?のイラストがわかるぐらいで、おそらく観客全員がリアルタイムに手探りでこの映画の意図を探っていただろう。

    宮崎駿は説教くさくタイトルのようなことを言ってくるのか?

    いつこの鳥人間みたいなのは出てくるのか?いや、なるのか?

    そもそもファンタジー要素はあるのか?

    など。というのも、どうやらジブリスタジオ単独の出資による映画らしいので、宣伝をしないという宣伝に踏み切っていたのだ。関係者は期待と不安で戦々恐々としていたようだが、しかしそれは出資元の顔色を伺う必要がないということも意味している。

    歴代のジブリ映画たちはやりたいこととお金を得ること(出資を得ること、興行収入をあげること両方だ)のバランス取りを非常にシビアにしている。それを可能にしているのは鈴木敏夫という『プロデューサー』が宮崎駿という『天才』の舵を取り、出資元や観客が求めるものと上手く擦り合わせているからなのだが、そこから出資元という邪念をなくすとどうなるだろう?

    実際には配給元も入ってくるがいわば作り手と受け手の関係だけになり、それは同人世界のような純粋にやりたいことをやるという行為に近付くのではないか。わからない人にはわからない、それで結構。そんなスタンスがとれる。その状態を加味した上で映画の疑問点や考察できうる点を列挙していきたいが、あまりにも膨大になるので咀嚼しながら書いていこうと思う。

  • issue31

    issue31

    遊郭通いの彼は言う。

    哲学、道徳、芸術、宗教が人としての在り方だと。

    なるほど、確かに、私が芸術にただ恋い焦がれていたのは、人として在りたいからだったのだ。

    しかし彼は続けて言う。

    それでも芸術はあくまで趣味を通じて存在を翫賞するだけで、根本的に存在を会得するには哲学が必要なんだ。

    哲学だけじゃない。道徳も、宗教も。

    私はせいて、彼の言葉を継いで言う。

    人間はどれかが欠けていると、それを世間というものに翻弄されてしまうんだ!

    発した音は分厚いワタのような空間にしんしんと吸い込まれていく。

    返ってくる言葉はまだ、ない。

  • issue30

    issue30

    物体には全てインリョクがある

    地をふみしめ

    朝と夜が入れ替わり

    四季が移ろい

    潮が満ちてはひいて

    星空がプラネタリウムのようにまわる

    そして星たちは近くなりすぎると、お互いの質量でお互いをほろぼしてしまうという

    それを初めて見たのは銀河鉄道が出てくる漫画だった

    ぶつかり合い細かく弾け、星の死骸たち

    その死骸たちが煌めく様を見ていると、人間は心に涙を覚える

  • memory19

    memory19

    写真には眩しそうにしかめ面をする人が映っている

    次の写真に目を移すと今度は別の人の横顔が映る

    残りの写真も登場人物は二人、交互に出てきている

    そして最後の写真には質素な建物をバックに、二人が並んで映っていた

    これらの写真は白黒なので、朝なのか昼なのか、夕方なのか、晴れているのか曇っているのかわからない

    どんな色の服を着て、どんな輝きの車に乗っているのかわからない

    露出を間違えているのかやけに白飛びもしており、認識するのに必要最低限の時間と空間しかそこには存在しない

    それでも写真を撮っている人の呼吸、シャッターを切る時の緊張、撮り終えた満足感にカメラを下ろし、駆け寄る姿が情景として浮かんでくる

    綺麗に撮れただろうか?綺麗に写っていただろうか?心の中でほんのちょっと前のことを反芻する

    レンズを通して分断されていた二つの時間はまだ少しばかりはにかみを含みながらも、また一つに戻っていく

    この写真は、現代人にはもう撮れない

    例えまだ撮れたとしてもいずれ、その日はやってくる

  • memory16-3

    memory16-3

     ここからが今回の旅の本来の目的である。懐に忍ばせた本の名前は「本屋という仕事」。本屋による本好きのための本だ。今回巡った東京の本屋にも置いてあるのもよく目にしたが、こんなのを本屋で手に取るのは同業者か同業者予定の人たちぐらいな気がする。つまり僕は本が好きであり、さらにこんなご時世に本を売る仕事を細々としたいと決意している。実際は本だけでなく他ジャンルの商品も手狭に取り扱う予定なので「本屋」と名乗ることはあまりないかもしれない。やるからには実店舗を持つことの意義、モノをどんな客層に、どんなプラスの価値を与えて売るのか。売りたいのか。仕事をしながらもどんな時も頭を悩ましているが、なかなか答えは見つからない。むしろ見つかるぐらいならそれまでだと今は割り切っているが、考えることは単純に、そして純粋に楽しいことに気づかされる。

     本来の仕事も勿論好きなところもあるし、人の役に立っていることは無上の喜びである。しかしこの業界はどうやって売るかばかりに目がいって、そのモノがその客に本当に必要なものなのか、大半が一期一会な関係性の中であまりにもその感覚が薄れているような気がする。ましてや企業が広告に多額を注ぎ込んで中身は眉唾な商品を大大的に売っているところを見ていると、店頭に並んでいる=いいモノではないし、売られている=いいモノでも決してない。悲しいかな、大人が言うことは全部正しいと思っていたあの頃の純粋な僕らではもうないのだ。

     以上の文は5月に書いたものだが、この時と今の状況はかなり違う。SNSを見ていると、予想以上に独立系書店が多い。新たに開店しているのも多い。もともとの本屋が減少する勢いも凄いので、バランスは取れているのかもしれないが果たしてこの状況下で何のバックグランドもなしに店を開くことは正しいのだろうか?個人だからできることを皆でこぞってやれば、レッドオーシャンになることは必然だ。実際、独立系書店に置いてある本は似通ったものが多い。勿論、採算度外視でやっていくつもりだったがその自信と勢いも少し下火になってしまった。現在、新たなご縁で予想だもしない道を迂回していく、ーこれが本来の道かもしれないがー自分でもどうなるか一抹の不安を感じるが、まあ人生はこんなものだろう。60歳まではリハーサルだ。

     

  • story4

    Story4

    穴があいている。

    言葉を口から出してみる。

    床に穴があいている。

    こぶし大ぐらいのその穴は、部屋の床を覆う畳に忽然とあらわれた。まだ寝起きの頭は状況を把握できていない。いぶかる前に好奇心が体をその穴に引き寄せる。なぜなら、ぽっかりという言葉が似合うほど、その穴と畳の境界線は綺麗だ。まるでよく切れる包丁でくるりとくり抜いたかのように。薄い畳の断面が途切れるとあとは灰色の、おそらくコンクリが続いている。私は急いでお風呂場へ向かい、常備してある水泳用のゴーグルを装着する。ろくに調整もしていないので目がみちみちと見開かれる。髪の毛がゴムともつれあい多少違和感はあるが、今はそんなことは二の次だ。そしてその姿のまま穴の前に戻る。手には読書灯。好奇心と恐怖で指先が震え始める。恐る恐る穴の中を照らしてみるが、底はよく見えない。漫画や小説のように別の世界が広がっているとか、誰かがこちらを覗き込んでいるということもなかった。勿論、窃視者の目玉に襲い掛かろうと棒状のものが穴から暴れ出てくることもなかった。

    なぜこんなところに穴なんかあいているのだろうか?

    安堵が体の中心からひろがり穴への興奮が失せると、遅れて疑問が湧いてくる。顔をあげて周りを見渡すが、いつもの見慣れた部屋でとくに変わりはない。穴の前であぐらをかいて記憶をたどる。物を落としたからといってこんな穴はあきようがない。ああでもないこうでもないとうなっていると、外から雨の音に混じって工事の音が微かに聞こえてくる。ずっと空き地だったところがようやっと開発されることになったのだ。棒が地面に突き立てられ、ぐるぐると回転しているところが脳裏に浮かんでくる。理科の授業でジャージ姿に竹刀を持つ教師がやにむに思い出される。確か、地層についての内容だったろうか。

    記憶を頭の中で投影していると唐突に映像がふっと遮断される。いやまて、もしかしてこの穴はここが始まりではなく、上から下へ棒状のもので貫き、くり抜かれたのではないか?おそるおそる天井を見上げてみる。が、いつもの白い天井が広がっているだけだった。そこには私のように覗き込むような目も、穴もなかった。

    枕元の携帯が鳴る。そうだ、今日は仕事だった。とにかく準備をしないと。携帯のアラームを止めアップデートされた情報を頭の中に上書きしていくが、その間も意識は目の前の画面ではなく穴にあった。そのままにしておくのはなんだか気分が悪かった。スーツに袖を通しつつ、台所からボロボロの老兵さながらのまな板を持ってきて穴に蓋をした。畳の上にまな板がある図はシュールだったが、違和感があるほうが忘れずに済む。

    扉を閉める時も後ろ髪を引かれる思いだったが、仕事には行かなければ。チリチリとした焦燥感を胸に部屋を後にする。そういえば、部屋の鍵はなかったがどこに行ったのだろう。まあ、今はそんなことは、二の次だ。

  • memory18

    memorie18

    仕事をし、本を読み、音に触り、店を周り、物件を探し、話を聞いて、夢想する。

    この街に住みつくようになって早10年。

    もともと母方の祖母が「京オンナ」だったことや、その父(僕からみた曽祖父)が同じ大学に通っていたこともあるのか、初めから違和感や疎外感はなく溶け込んでいる。

    溶け込めているつもりでいた。

    自分のやりたいことを追い求めるために違う視点でこの街を見つめる。

    そしてハッとする。

    今までに感じたことのなかった違和感。疎外感。不安。

    東京はオープンだ、しかしこの街は違う。

    観光客、よそ者と言うジャンルに甘んじていたけれど、いつまでもこうはしていられないようだ。