• memory 28

    memory28

    イエス・キリストは磔刑に処された。

    十字架には数種類あるが、彼が運び張り付けられたものはアルファベットの「t」だった。

    「t」の利点は頭のうえにちょうど罪状を張り付けられるような形をしていることだ。

    そしてイエス・キリストの頭上に掲げられた紙には「ISNI」と書かれている。

    最近のinstagramのプロフにも、大文字のアルファベット4文字が張り付けられていることが増えた気がする。

    信仰心の厚さから発せられるわけではない、恨みのこもった叫び声が聞こえてきそうなものだが、特段、磔刑やイエスとは関係なさそうだ。

  • memory27

    memory27

    久方ぶりに美術館に足を運んだ。

    鉛筆でメモを走らせる人も、

    耳打ちしてお互いの意見を交換する人も、

    撮影可のエリアに入るととりあえず写真を撮っておく人も、

    解説の文にかじりつく人も、

    恋人の横顔ばかりを見てる人も、

    わからなかったのがわかるかもと販売所で図録に手を伸ばす人も、

    こうやって人間観察に励む人も、

    何が正しいかとか、そんなことはない。

    それがアートなのだろう。

  • memory26

    memory 26

    「■■■■■■■■■」

    「私にはよく眠れる薬が欲しいです」

    「△△△?」

    「■■■■■■」

    「■■■■■■■■■■■■■■ハバラヒリ■■■■」

    「△」

    薬のほうがいいですか?

    ■■■■■■

    「■■■■■■■」

    「より強い薬があればそれがいい電話です」

    彼は少し肩を竦めて首を横にふる

    私は微笑み、しばらく逡巡する

    これが一般的な薬です

    ■■■■■■■■

    「■」

    「△△」

    アンドロイドは電気羊の夢を見るのだろうか

    夢を見るために寝、寝るために夢を見る

  • issue32

    issue 32

    Mr.

    Miss.

    Mrs.

    man

    woman

    human

    主人

    旦那

    家内

    奥様

  • story5-1

    Story5-1

    「そろそろ着くよ」低い声が背中にぶつかる気配がして、深く沈んでいた意識が引き上げられる。軋む音がするのは小さく丸まっていた身体からではなく、この身体を乗せている古い小さな舟だ。うたた寝をするなんていつぶりだろうか。霞む視界を瞬かせ身をよじり振り返ると、声の主は前方を見据えたまま立っている。手に握る棒を振り子のようにゆっくりと左右に揺らすと、それに合わせて舟もギィ…ギィ…と鳴きながら左右にその老体を揺らす。そのリズムはやけにもたついていて焦ったいものだが、身を委ねてしまうとまた再び眠気が戻ってきそうなので背中をしゃんと伸ばす。視線を前に戻すと舟頭にぶら下げられた光の先に、暗闇に浮かび上がる大きな影をいまだに霞む瞳が捉えた。古めかしい建物…洋館と例えるべきなのだろうか。ところどころ窓から橙色の光が漏れている。建物は左右非対称になっているだろうか。左側に先端の尖った塔が一本そびえ立ち、右側は屋根がドーム状になっており、本館とも言うべき一番大きい真ん中の建物と歪につながっている。つら構えは非常に重厚で、あまり感じることのない建物のいかめしい表情というものを垣間見る。波止場に降り舟守にお礼を伝えると薄闇の中でかすかに頷く気配だけが伝わり、またきた方角へと舟がゆっくりと滑り始める。小刻みに揺れる光が遠くなるまで立ち尽くして眺める。遠くの暗闇には他にも水平線上に動く小さな光が点在し、上には満点の星空が広がり続けている。冷たい風がくるくると足から首へと這いまわり目が完全に覚める。こうしてはいられない、急いで向かわないと。建物へは一本道なので迷うことはなかった。遠目で見たときはその佇まいに厳格な父性を思わせるいかめしさを感じたものだが、いざ実際に建物の前に立つとおやと思う。そこには年輪のように重なり合う鬱屈とした空気はなく、老齢の肌を思わせる深く刻まれたヒビに掌を押し当てても何も返ってくるものはなかった。古い建物とはいえおそらくここ数十年で消失した建物をわざと古く建て直したに過ぎないのだろう。いささか困ったような、バツの悪そうな空気に変化した気がするのは私自身の問題だろう。

    石造りの門へと近づくと、扉は音もなく左右にスライドして壁に吸い込まれていく。やはり、ガワは古く見せ、中身は進化の止まった技術がふんだんに詰め込まれているようだ。身体が完全に建物に飲み込まれると背後で扉が静かに閉まり、四方が鏡に覆われた空間にいた。光源は見当たらないが薄暗いと言うよりは薄明るい。この通過儀礼とも言えるような空間、行為はいまだに慣れない。早く終わって欲しい一心で目を閉じる。完全に防音なのだろう、普段は意識しない自分の中の音が徐々に聴こえ始める。サラサラとした高音と、ドクドクとした低音。混じり気のない音。思いもよらないところで自分がまだしっかりと生物である再発見をしたことに内心驚く。前方からやけに湿っぽい視線を感じ意識を内から外に戻すが、合わせ鏡になっているのでひたすら自分の姿が反復されているだけだった。居心地の悪さに少しみじろぎをすると鏡の中の自分も何十何百何千と同じ動作を繰り返す。光の速さは1秒でこの星を何周もするには早いらしいが、何万何億何兆と鏡が同じ動作を反復していくとついには自分よりも遅く動く自分がこの中にいるのではないだろうか。そうでなくとも、これだけの自分がいれば一人ぐらいは違う動きをするのではないか。いささか不安になり始めた頃、ピンと音が鳴ると目の前の鏡に亀裂が現れ、また音もなく左右へと吸い込まれていくので急いでそこに飛び込む。薄明るさは多少穏やかなものに代わり、エントランスを抜けられたことを実感する。数回深呼吸をして気を引き締め直す。まだ本題はこれからなのだから。緊張によりすっかり冷えてしまった手先で懐から合成紙の封筒を取り出し、中身を確認する。事前に受け取った招待状に同封されていた案内によると、この先には中庭が鎮座し、そこを中心に螺旋状の階段がぐるぐると上へと伸びている。そしてその階段に沿って様々なお店が連なっているらしい。どう見ても建物の外観よりも高さのあるそれも、今となっては目新しさもない子供騙しの技術である。案内にざっと目を通し、封筒に戻す際に招待状がはらりと足下に落ちた。ぎょっとして周りを見渡すがそれに気を止める者はおらず、皆幽霊のように行き来している。そそくさと拾おうとすると、あまり見ないようにしていても、招待状に手書きで書かれた最後の名前に目がまた止まってしまう。「エドガー」。やけに丸っこい筆跡で書かれていて、柔らかさと温かさを思わせる。と言うよりは思わさせられているとでも言うべきだろうか。両親はこの招待状が届いたときには手を取り合い歓喜の舞を不格好に踊るぐらいには喜んでいたが、私自身はあまり気乗りしていなかった。

    しばらく道なりに歩いていると、中庭のほうで大中小様々な影が集まり、うごめいていた。時折、ポラン…ポラン…と電子音がそこから漏れてくる。今は絶滅してしまったウマの中でも縞々模様がある種は、寄り集まり、模様を一つの大きな生き物に見せることで捕食者から身を守っていたらしい。おそらくそれと同じ現象で、私はその影の集まりが次の獲物を探しまわる非常に不気味な生き物に見えた。十歩ほど離れたところからしばらく観察していると、皆同じ方向を見ている。見たこともない動物のような仮面をそれぞれつけているのでどんな表情かはわからない。それでも、少し上を、斜めに視線が集まっているように感じる。視線の先を追ってみると、そこには建物のガラスに映し出された大きな丸が浮かんでいた。まだ無垢だった頃の姿のままで、白々しく。ああ今日は旧暦で中秋の名月にあたる日だったか。埃が被るどころかもはや風化し、触れば砂のように溶けてしまいそうな昔の風習を引っ張り出してくる試みは、集客という点ではある程度功をなしているようだ。見るまで忘れていたとはいえ、そんな風習やら大昔に絶滅した生き物のことをすぐ思い出せたのは曽祖父のおかげだろう。曽祖父は当時でも古い人間と評されていたぐらいで、多様性に合わなかったり過去の遺物で役に立たないと捨てられてきた風習や格式、知識を丁寧に拾い上げて棚に納めるような人間だった。まだ身長が伸びる余地があった頃の私はどうしてそんなことをするの?と聞いたことがある。曽祖父は子供の純粋ゆえに研ぎ澄まされた質問を柔らかく受け止め答えた。「これが良いとかあれは悪いとか、選ぶ事が全て正しい訳じゃないんだ。その時は正しく見えたとしても時代が変われば、その基準も変わるからね。知識も同じだよ。今は役に立たなくても後には役に立つかもしれない。生き残るには道具は多いにこしたことはないさ。」私は言葉が終わりに向かうにつれ、曽祖父の目元の柔らかなシワがどんどん眉間に移動して、山のように深くなる様子を見届ける。曽祖母にとっては曽祖父が金にもならないことに執着し妄信しているように映っていたらしく、晩年には別居していた。今思えば、実際のところは別の息苦しさがあったのかもしれない。少し甘く、煙ったい香りが鼻の奥から湧き出て頭の中の記憶の扉を軽くノックするが、影の生き物の低くくぐもった鳴き声から隠れるように止んでしまった。

  • 二面性の存在

    culture3

    日本人は何を考えているかわからない

    日本人は素直じゃない

    日本人は本心をなぜ言わない

    ジェンダー問題に関心のある人間が人種を主語に置くのはどうかと思うが、そんな感情を会話の端端で感じるし、実際耳にする。まるで自分が責められているようで耳が痛いものだ。そんなことを言われてもここは日本だし、貴方がいるのはそんな日本なのだから仕方ないじゃないかとも思うが、そんなことを言えばあれよあれよと格好の的にされてしまうので口をつぐむばかりだ(このやり方がすでにJapanese likeなのだろう)。

    とは言え、自分自身もそう言われてしまう理由が漠然としているので、日本人のこのイメージについて考えてみる良い機会かもしれない。

    まず何よりも、そんな日本人がシャイであるのは人種云々の前に個々の性格が起因しているのは言うまでもない。小さい子に接する機会がこの歳になると増えてきたが、すでにこの時点でせかせかと動きまわり思ったことをすぐに口に出せるわんぱくな子もいれば、じっと様子を伺う物静かな子もいる。そのまま成長すれば後者がいわゆる日本人らしい奥ゆかしさを代表しそうに思えるが、実際にはそこから育つ環境によって如何様にも姿は変わる。遺伝と環境どちらの影響が大きいかまでは断言できぬが、海外の人が「あなたは〜」ではなく「日本人は〜」と主語を大きくして言いたくなってしまう原因は、個々の遺伝というよりは日本という環境によるものなのだろう。

    環境にも宗教、社会、民族など色々な要素があるが、1つは神道の影響だ。八百万の神という言葉はだれしもが一度は耳にしたことがあると思う。簡単に言えば万物には神様が宿るから、物は大切にしようという教訓だ。その考え方に高い親和性がある日本人は言ってみれば元々は多神教だ。そして良い神も悪い神(人にとって)も両方とも同じように敬い、奉り、おもてなしをする。両方というのが肝である。自分たちにとって良い神をもてなす分には多少の緊張感はあれど和やかなムードで時はすぎるだろう。しかし、悪い神をももてなすというのはどうだろうか。僕なら笑顔はひきつり、指は膝の上でまごまごと衣服をつまみ、時計があれば見る見ないの葛藤でそれどころではない。しかし外面的には良い神と同様、もてなすムードを出さなければならない。千と千尋の神隠しを観たことのある方なら、オクサレ様のエピソードを想像すればわかりやすい。強烈な悪臭に髪を逆立て目をひんむきつつも、おもてなしをする。そして神がお帰りになり、やっとひと息をつける。

    ここで言いたいのは、自分たちにとって悪いものも表面上は受け入れ、もてなそうとする精神が日本人の根底にはあることだ。世界の大半を支配するキリスト教とイスラム教は一神教だ。唯一のGod。故に他の神は良い悪いに関係なく、認めない。これが他国の人から見て日本人のYes or Noが曖昧だったり、本心がよくわからないという感想に繋がる。この日本人に特有と思われがちな二面性にも神道は一役買っていると僕は考える。というのも、キリスト教の聖典と呼べるものはユダヤ教の旧約聖書を土台にイエスキリスト以降の新約聖書が新たに追加された二段ロケット方式であるのに対し、神道は「表」の古典とそれを補う形の「裏」の古典が存在しているからだ(正確には神道には経典と呼べるものはないらしい)。

    まあ、そもそも、人間は話す相手によって自分を変えていくものだし、こんなこじつけをする必要もないのだが…。

    もう1つは民族性だ。参考になりそうなものに有名な『菊と刀』がある。実際に日本でフィールドワークをしてないということで信憑性には欠けるが、それでも興味深い内容もある。日本には「恥の文化」があるらしく、キリスト圏でみられる人に懺悔(罪の告白)をすることで罪が赦されるという「罪の文化」とは全くの逆である。罪や弱みを人に知られることは(当時の)日本人にとって恥なのである。罪を憎んで人を憎まずとはよく言うが、恥を憎んで人を憎まずとは聞いたことがない。そんなことになれば人が恥を隠そうとするのは自然な流れだ。話は少し逸れるが、先日やっと初めて観た戦場のメリークリスマスでも日本兵が「恥」という単語を使っていたのを思い出す。日本男児の恥。世間の恥。なんともまあこれまた大きくもあり、あやふやな主語である。当時の戦前戦時中の日本の右向け右ぶりは現代の我々から見ると異常にみえるが、はたして現代の我々は、未来の我々から見られた時に異常ではないと言えるだろうか?外部からの多様性の奔流に右往左往している、まさに変化の最中ではあるがそれでも因習は根深く残っている。例え内心では違うことを思っていても世間を気にし、空気を読むことで周りに合わせた曖昧模糊な言葉を出す。これが日本で生きていく術なのだから仕方ないこととはいえ、結果として海外から見ると日本人が自分の意見を持たない人種と思われてしまうのかもしれない。

    以上のことから、冒頭のような身に覚えがあって、しかしはっきりと頷けない言葉を言われることになってしまうのだろう。ちなみに、神道について言及したが、日本人無宗教説と言う本を現在読んでいる。このテーマもよく考えることだったので、少しずつ読み進めている。日本人は無宗教である、無宗教ではない、と結論づけるものではないが、先人たちが同じ問題で悩んでいたことがよくわかる一冊になりそうだ。

  • memory25

    memory 25

    AMADEUS

    本や音楽はとかく読んだり聴いたりするのは好きなのだが、自分でも不思議なぐらいに映画は観ない。一度、なぜ映画を観ないのかパートナーに詰められた時は「感傷的になりやすい」「2〜3時間も座っているのが辛い」「情報量が多すぎる」など最もらしいことを並べて凌いでしまった。表面上は確かに自分でも考えられる理由なのだが、本質的にはどれもどこかずれてしまっている気がする。

    と、深掘りしてしまうと本題とずれてしまうので、その本質を議論するのは置いておく。つまりそんな映画無精な僕が吸い込まれるように観たのが今回の「アマデウス」だ。仕事帰りの電車の中、ただ暇つぶしでアマプラの映画一覧を流し見していると、あるところで目が止まった。両手を顔の高さにまで重々しく持ち上げ、シルエットしかわからないがおそらく仮装をした人物(男性?)。瞳はこちらをまっすぐに射抜いてくる。そしてその額にはシルエットの中に杖を持った人物(魔女?)から放射状に白い光が飛んでいる。そして「アマデウス」と単語だけ。SFかな?と思うぐらいには全くどんな映画か知らずに、タイトルとその宣伝イメージが妙にその時の気分にしっくりと来たのだ。詳細を見れば、あらすじにはモーツァルトの文字。SFではないのかと、意外に思いつつ特に落胆することはなかった。あいにく購入しなければ観れないものだったが、自然と購入ボタンを押し、数十秒後には電車の中で見始めていた。

    内容に関しては既に評価や考察などはたくさんあるので、今の僕が今のタイミングで観たことで得た知見をつらつらと書いていこうと思う。

    まず一つ目は、無教養な私でもわかるモーツァルトという名前と彼の作品が楽譜を通して今でも伝わっている業績だが、「大衆に受けるか否か≒時代に合っているのか」と、「新しい試みの芸術的な価値」のバランスが当時も非常にシビアであったこと。同時に、モーツァルトですらそのシビアさに打ちのめされていたということである。定期的に資本社会下の芸術の立ち位置が議論されているのを目にする。つまり、金になる芸術か、金にならない芸術か。大衆に支持される芸術にすり寄るのか、自分の表現したいものをひたすら突き詰める芸術か。無論、どちらとも甲乙つけがたいし、自分のやりたいことが金になれば万々歳だ。しかし、マイルス・デイヴィスのように、大衆の好みが変化していく時代の流れに合わせてジャズの音楽性をブラッシュアップしていき、成功をおさめているアーティストもいる。久石譲は「ジブリのコンサートはすぐに埋まるが、現代音楽のコンサートはなかなか埋まらない。今の音楽を知って欲しい気持ちもあるが思うようにはいかない」といった胸中を著書に明かしている(日乗する音楽)。坂本龍一は「ささっとCM用に作った曲が大ヒットしたことが不思議」とのたまっている。プロでも、目指す音楽と時代に合った音楽の狭間で切磋琢磨したり悶々としているのだ。そして今回の、モーツァルトも。誰しもが苦悩した上で短かったり長かったりする人生を生き抜いているのだ。

    二つ目は、世の中には「創り手側の才能」だけでなく「受け手側の才能」の両方が必要ということ。どんなにいいものが創られても、無教養で合ったりそれを翫賞する才能や情緒がなければ正当な評価はされず、後世に残らないのだ。映画内では作曲を渇望するサリエリがモーツァルトの才能に嫉妬し苦悩するシーンが多いが、モーツァルトの楽譜を見るだけで頭の中でオーケストラが鳴り、再現することができるサリエリも充分「受け手側の才能」はあるのだ。彼だけがモーツァルトを理解できる。そのことが余計に彼の苦悩を深くしてしまう訳だが、これは規模は違えど私らの日常生活でもたくさん起きている。他者と比較し、時には勝利を誇らしげに、時には敗北感に打ちのめされ。自分の求めるものが手に入らず、神を呪ったり。なぜあいつは。なぜ自分は。アイデンティティの確立が青年期に求められるが、それは他者と比較する危うさを孕んだ言葉である。しかし、自分の持たざるものの執着を捨て、今自分にあるものに目を向けることはある種のブレイクスルーをもたらしてくれるかもしれない。新たなアイデンティティがそこに生まれるかもしれない。映画は忠実とフィクションを混ぜているのでどこまでが本当かは定かではないが、苦悩するサリエリがとても哀れで、また美しくも感じてしまう。

    以上、述べたように非常に共感したり自戒するような要素が多かった。読書は人の頭を借りて考えることだと痛烈な批判もあるが、しっかりと自分の意見を持ち、対話することができればそれは、非常に有意義なものであると私は信じている。それは、映画も同じかもしれない。受け手側の才能。lecteurかliseurか。数少ない読者はどうだろうか。

  • memory24

    memory24

    自分の名前を書いて、そして見るのは人生で何回あるのだろうか。個体を識別するためではあるがオンリーワンにはなかなかなれない不思議なもの。煩雑な手続きをする度に幾度となく手書きをいまだに要求される。成長するにつれ真っ直ぐだった線は曲がりそして他の線と歪にも流暢にも合流し繋がっていく。できあがったものは何かの虫が這ったかのような跡。漢字の書き取りをひたすら真面目にしていた小学生の自分に白目で見られても仕方ないぐらいだ。

    簡略化してしまうほど慣れた自分の名前。小学生の頃、学校の課題で自分の名前の由来を聞くというものは皆なかったろうか。恐らく当時は聞いてもふーんと思うぐらいだったかもしれないが、気付けば、特に身内なんかはまさに名は体を表すと言わんばかりになっている。国によっては風水や運気を変えるために自身で名前を変えれるところもあるらしい。それほどに名前には占い的な、暗示的な要素があるのだ。と、思わずにはいられない。そんな歳になってきたようだ。

  • oshirase

    管理人からのお知らせ

    なにやら自動更新でサイトの仕様が変わり、既存の言葉たちの行間が非常に読みにくい事態が発生している。

    なんとかしたいものだが現状手立てがないのでしばらくはこのまま試行錯誤していくことをこの場を借りて数少ない読者に陳謝させて頂く。

  • memory23

    memory23

    昔々、いつも親にさからってばかりいる雨蛙の子がいた。死期の近いのをさとった親蛙は、子を呼んで「死んだら川のそばに埋めてくれ」と頼む。そうすれば山に埋めるに違いないと思ったのだ。しかし心の中ではこれまでの親不孝をすまなく思っていた子蛙は、最後ぐらい親の望みをかなえてやろうと、言われた通り川のそばに埋めた。だからいまでも雨が近づくと、川水があふれることを心配して蛙が鳴くのだという。

    (引用:雨のことば辞典)

    日本に住んだことのない人からすると、鈴虫など日本人が聴くと風情を感じる音はただのノイズでしかないらしい。おそらく蛙も例外ではないだろう。そんな蛙の鳴き声に物語をのせる日本人の感性は当たり前ではなく、知らないだけで当たり前なのかもしれない。

    何はともあれ、蛙の鳴き声がどこか泣き声のように聴こえるのは自分だけではなかったようだ。