memory16-1

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 半年ぶりに東京へと戻った。仕事終わりに家に帰るや否やカメラと下着と上着、靴、ズボン、1dayコンタクト、タブレット、日傘、ノートPC、メモ帳とペンをぽいぽいとアタッシュケースに放り投げていく。軽快に積み上がっていく荷物たち。そして毎回最後まで悩むのは、旅を共にする本の選書だ。現地で仕入れるのも考慮してあまり数は持っていけないし、そもそも自分の性格上あれやこれや持っていっても全てを読むことはできない。読みかけの本はたくさんあったが、どうせなら今回の旅(という名の帰省)に合ったものにしようと思い、「本屋という仕事」をバッグにそっと忍ばせて部屋を後にした。

 実家に戻るのは大抵年末年始で、特にこの2〜3年はコロナの影響もあったので今回は人の数の多さに改めて面食らってしまった。既に京都も観光客の入りがほぼ回復し、ただでさえ細い路地が、所狭しと人で埋め尽くされている。とは言え、やはり東京は京都と違ってうねるような人の黒い波と、鈍く光る建物が上から降ってくるような圧迫感がある。そして、若い美男美女が多い。男も女も白い肌とすっと伸びる鼻、薄い唇。つぶらもしくは切れ長な瞳。ファッションも含めて、まるでSNSで有名な人たちが画面から飛び出してきているようだった。こんなにも多いと感じるようなことはあったろうか。マスクを外すことで魅力が引き立っているのだろうか?しかし、感心する一方で、異国…いや、異星の地に降り立っている感覚がしてきたのだ。「異星」と表現したのは脳裏に浮かぶ銀河鉄道999の影響だろう。

 主人公の鉄朗は生身の人間で、機械の体を貰いに謎の美女と星々を旅をしているわけだが、人間と機械人間では容姿に性能、生存力どれをとっても機械人間のほうに軍配が上がってしまう。みんな同じ甘いマスク、すらりとのびた四肢。身長も低く扁平足な鉄朗はことあるごとにそんな機械人間から人外(ペット)扱いされてしまうわけだが、彼の物語は語り尽くせないので是非ともご拝読していただきたい。僕がここで言いたいのは、東京に美男美女が多いのはなぜなのか。生まれ持ったものもあるし、努力による変化もあるだろう。美の尺度や基準は無論、時代や文化により変わる相対的なものだが、SNSの普及で人に見れらることが当たり前となっている。そして美の基準が均一化されているのが理由の一つにないのだろうか。前向きな美であるのならそれはいいのだが、少しでも自分の欠落を埋めるための外装というつもりがあるのであれば、どうかそれだけに囚われないで欲しい。生き物らしく大いに食べて寝て外見に囚われず己を貫く鉄朗は機械人間よりもよっぽど魅力的だからだ。