Story6
来月急遽異動が決まった。他の人員にかなり動きがあり、自分もその波に押されるようにしてどこかへ流されるのはなんとなく予想がついていた。だから、上司がタバコを吸いながら申し訳なさそうに切り出してきた時も特に驚きはしなかった。背負う責任も年数と共に徐々に増え、今より忙しい店舗なのは確実だ。しかしそんなことは他人事のように頭から流れ落ち、代わりに良くしてくれたお客さんたちの顔が湧き出てくる。残りの日数で全員に挨拶できるかなと上の空で考えていると、口からまどろみ出る白い煙の中にある心配事がふつりと浮かぶ。◻︎さん。あの人大丈夫かなあ。
◻︎さんは僕がこの店に来て以来なにかと相談事や世間話をしてくれるお客さんのうちの1人だ。そして僕が来てしばらくして認知症と診断され、どんどん症状も進行していた人だ。別の薬剤師が接客した内容を僕と勘違いし始め、同じものを別日にも買いに来るようになってきた。最近は開店の30分前から店の前の扉に立っていたり、裏口の駐車場にいることもあった。◻︎さんは挨拶するたびに私のあたま、おかしいのと頭を自分で少しこづいて、笑顔をこちらに向ける。僕が認知症のことを知ってるのはパートのおばさんが◻︎さんの家族の友達の友達で、心配になった家族づてにここまで話が届いていたわけだ。しかしそれを本人に悟られるのはあまり好ましくはないだろう。僕だって忘れますよとすまして言うが内心は沈痛な面持ちだった。
母方のおばあちゃんは認知症になって死んだ。京オンナらしく豪胆な印象が小さい頃から強く、おほほとよく笑う人だった。しかし最期は何もかもわからなくなって笑顔で逝った。そんなおばあちゃんと重なり、遠くに桃色のサンバイザーが見えると姿を隠したくなってしまう。それでも毎回同じ挨拶をし、同じやり取りをし、話題に困りながら天気の話をする。変化があるとすれば、異動の話。また今度と言い振り向き間際の背中に異動のことを伝えると、少し止まる。少し止まった後、すーっとこちらに向き直り、思ったよりも冷静な声で寂しくなるわね。また来ますと言い残していった。その時どんな表情をしていたか思い出そうとすると、迷子の子供の姿が映るのはなぜだろう。
そしてある日、一仕事を終えふと入り口の方に目を向けると◻︎さんが立っていた。後ろには僕の母親と同じ年齢ぐらいの女性が2人いた。白いポロシャツに首から青い紐をぶら下げている。格好からして、そうなのだろう。◻︎さんは笑顔で友達を連れてきましたと言う。僕は素直に安心しましたと後ろの2人に向けて言う。2人は事情をあまり知らないのか少し困惑した表情を浮かべる。この白衣の男は何者なのだ?そんな2人を見ながら◻︎さんと一緒に秘密めいた笑顔を浮かべたりした。雷がごうごうと鳴る音はするが、店の窓からは晴れた空が見える不思議な日だった。
※これはあくまでstoryであり、memoryとは違うことを付け加えておく。