story5-1

Story5-1

「そろそろ着くよ」低い声が背中にぶつかる気配がして、深く沈んでいた意識が引き上げられる。軋む音がするのは小さく丸まっていた身体からではなく、この身体を乗せている古い小さな舟だ。うたた寝をするなんていつぶりだろうか。霞む視界を瞬かせ身をよじり振り返ると、声の主は前方を見据えたまま立っている。手に握る棒を振り子のようにゆっくりと左右に揺らすと、それに合わせて舟もギィ…ギィ…と鳴きながら左右にその老体を揺らす。そのリズムはやけにもたついていて焦ったいものだが、身を委ねてしまうとまた再び眠気が戻ってきそうなので背中をしゃんと伸ばす。視線を前に戻すと舟頭にぶら下げられた光の先に、暗闇に浮かび上がる大きな影をいまだに霞む瞳が捉えた。古めかしい建物…洋館と例えるべきなのだろうか。ところどころ窓から橙色の光が漏れている。建物は左右非対称になっているだろうか。左側に先端の尖った塔が一本そびえ立ち、右側は屋根がドーム状になっており、本館とも言うべき一番大きい真ん中の建物と歪につながっている。つら構えは非常に重厚で、あまり感じることのない建物のいかめしい表情というものを垣間見る。波止場に降り舟守にお礼を伝えると薄闇の中でかすかに頷く気配だけが伝わり、またきた方角へと舟がゆっくりと滑り始める。小刻みに揺れる光が遠くなるまで立ち尽くして眺める。遠くの暗闇には他にも水平線上に動く小さな光が点在し、上には満点の星空が広がり続けている。冷たい風がくるくると足から首へと這いまわり目が完全に覚める。こうしてはいられない、急いで向かわないと。建物へは一本道なので迷うことはなかった。遠目で見たときはその佇まいに厳格な父性を思わせるいかめしさを感じたものだが、いざ実際に建物の前に立つとおやと思う。そこには年輪のように重なり合う鬱屈とした空気はなく、老齢の肌を思わせる深く刻まれたヒビに掌を押し当てても何も返ってくるものはなかった。古い建物とはいえおそらくここ数十年で消失した建物をわざと古く建て直したに過ぎないのだろう。いささか困ったような、バツの悪そうな空気に変化した気がするのは私自身の問題だろう。

石造りの門へと近づくと、扉は音もなく左右にスライドして壁に吸い込まれていく。やはり、ガワは古く見せ、中身は進化の止まった技術がふんだんに詰め込まれているようだ。身体が完全に建物に飲み込まれると背後で扉が静かに閉まり、四方が鏡に覆われた空間にいた。光源は見当たらないが薄暗いと言うよりは薄明るい。この通過儀礼とも言えるような空間、行為はいまだに慣れない。早く終わって欲しい一心で目を閉じる。完全に防音なのだろう、普段は意識しない自分の中の音が徐々に聴こえ始める。サラサラとした高音と、ドクドクとした低音。混じり気のない音。思いもよらないところで自分がまだしっかりと生物である再発見をしたことに内心驚く。前方からやけに湿っぽい視線を感じ意識を内から外に戻すが、合わせ鏡になっているのでひたすら自分の姿が反復されているだけだった。居心地の悪さに少しみじろぎをすると鏡の中の自分も何十何百何千と同じ動作を繰り返す。光の速さは1秒でこの星を何周もするには早いらしいが、何万何億何兆と鏡が同じ動作を反復していくとついには自分よりも遅く動く自分がこの中にいるのではないだろうか。そうでなくとも、これだけの自分がいれば一人ぐらいは違う動きをするのではないか。いささか不安になり始めた頃、ピンと音が鳴ると目の前の鏡に亀裂が現れ、また音もなく左右へと吸い込まれていくので急いでそこに飛び込む。薄明るさは多少穏やかなものに代わり、エントランスを抜けられたことを実感する。数回深呼吸をして気を引き締め直す。まだ本題はこれからなのだから。緊張によりすっかり冷えてしまった手先で懐から合成紙の封筒を取り出し、中身を確認する。事前に受け取った招待状に同封されていた案内によると、この先には中庭が鎮座し、そこを中心に螺旋状の階段がぐるぐると上へと伸びている。そしてその階段に沿って様々なお店が連なっているらしい。どう見ても建物の外観よりも高さのあるそれも、今となっては目新しさもない子供騙しの技術である。案内にざっと目を通し、封筒に戻す際に招待状がはらりと足下に落ちた。ぎょっとして周りを見渡すがそれに気を止める者はおらず、皆幽霊のように行き来している。そそくさと拾おうとすると、あまり見ないようにしていても、招待状に手書きで書かれた最後の名前に目がまた止まってしまう。「エドガー」。やけに丸っこい筆跡で書かれていて、柔らかさと温かさを思わせる。と言うよりは思わさせられているとでも言うべきだろうか。両親はこの招待状が届いたときには手を取り合い歓喜の舞を不格好に踊るぐらいには喜んでいたが、私自身はあまり気乗りしていなかった。

しばらく道なりに歩いていると、中庭のほうで大中小様々な影が集まり、うごめいていた。時折、ポラン…ポラン…と電子音がそこから漏れてくる。今は絶滅してしまったウマの中でも縞々模様がある種は、寄り集まり、模様を一つの大きな生き物に見せることで捕食者から身を守っていたらしい。おそらくそれと同じ現象で、私はその影の集まりが次の獲物を探しまわる非常に不気味な生き物に見えた。十歩ほど離れたところからしばらく観察していると、皆同じ方向を見ている。見たこともない動物のような仮面をそれぞれつけているのでどんな表情かはわからない。それでも、少し上を、斜めに視線が集まっているように感じる。視線の先を追ってみると、そこには建物のガラスに映し出された大きな丸が浮かんでいた。まだ無垢だった頃の姿のままで、白々しく。ああ今日は旧暦で中秋の名月にあたる日だったか。埃が被るどころかもはや風化し、触れば砂のように溶けてしまいそうな昔の風習を引っ張り出してくる試みは、集客という点ではある程度功をなしているようだ。見るまで忘れていたとはいえ、そんな風習やら大昔に絶滅した生き物のことをすぐ思い出せたのは曽祖父のおかげだろう。曽祖父は当時でも古い人間と評されていたぐらいで、多様性に合わなかったり過去の遺物で役に立たないと捨てられてきた風習や格式、知識を丁寧に拾い上げて棚に納めるような人間だった。まだ身長が伸びる余地があった頃の私はどうしてそんなことをするの?と聞いたことがある。曽祖父は子供の純粋ゆえに研ぎ澄まされた質問を柔らかく受け止め答えた。「これが良いとかあれは悪いとか、選ぶ事が全て正しい訳じゃないんだ。その時は正しく見えたとしても時代が変われば、その基準も変わるからね。知識も同じだよ。今は役に立たなくても後には役に立つかもしれない。生き残るには道具は多いにこしたことはないさ。」私は言葉が終わりに向かうにつれ、曽祖父の目元の柔らかなシワがどんどん眉間に移動して、山のように深くなる様子を見届ける。曽祖母にとっては曽祖父が金にもならないことに執着し妄信しているように映っていたらしく、晩年には別居していた。今思えば、実際のところは別の息苦しさがあったのかもしれない。少し甘く、煙ったい香りが鼻の奥から湧き出て頭の中の記憶の扉を軽くノックするが、影の生き物の低くくぐもった鳴き声から隠れるように止んでしまった。

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