坂本龍一/Playing the Piano 2022

Person1

”手の、ざらついた肌理の下を骨が、血管が這っているのがわかる。モノクロの映像が陰影をさらに際立たせている。始めはポツポツと鳴るピアノの音はやがて減衰し、息遣いや衣擦れの音、ペダルを踏むくぐもった音、環境のノイズとの境界が溶けて曖昧になっていく。音の響きを伝えるように、そして自分自身も確かめるように、指は粛々と白鍵と黒鍵をなぞっている。狭いワンルームはたちまちに緊張と、解放からなる、聴くための時空へと飛んでいた。”

ーこの形式での演奏を見ていただくのは、これが最後になるかもしれない

闘病中の坂本龍一は12月11日のピアノ単独でのライブ配信が決定した際、このようなコメントを残していた。当たり前のような存在が不意に消えてしまう、永遠はない、会える時に会え、聴ける時に聴けという教訓はこのコロナ禍で嫌でも学んだ。だからこそ、普段あまりライブを観ない私でも急いで配信チケットに手を伸ばした。

私が、かの教授の曲を知ったのは母が寝室で弾くピアノだった。クラシックを弾くことの多い母だったが、ある曲だけはやけに耳に馴染みやすいというか、とにかく印象に残っていた。CMに使われていた「energy flow」。あとからビタミン剤のCMだと知って、疲労回復のビタミン剤にこの曲が使われていたの?と首を傾げそうにもなるが、当時バブル崩壊後でまだ疲弊が残る社会。儚くも、優しく受け止めてくれるようなピアノの旋律が心地よかったのだろう。同シングルはミリオンセラー(そういえば最近はとんと、この言葉を聞かなくなった)だった。これが初めて教授と遭遇した記憶だ。ちなみに、今は「エナジー風呂」という曲もあるが、坂本龍一の響きとU-zhaanのタブラ、鎮座Dopenessと環ROYのラップが心地いいので是非拝聴してもらいたい。

その後の接触は間が空き、まだサブスクが存在しない時代に動画サイトで偶然、「HASYMO」として再会した。おそらく電車か何かから撮影した街並みの映像を、上下で反転してくっつけただけの動画。それだけなのに、見入ってしまった。街は水没したかのように下は海、上は空となっている。「The City of Light / Tokyo Town Pages」はそんな幻想的な、街の平熱を感じさせる曲だった。HASYMOはHuman Audio SpongeのHASとYellow Magic OrchestraのYMOを繋げた名称らしいが、その後YMOが復活しHASYMO名義の曲は数少ない。しかし、私にとってこのHASYMOでの再会は少なからず影響を残していった。

思い出話から戻ろう。今回のライブのセトリや各曲の解説は他のサイト(https://special.musicslash.jp/sakamoto2022/ln-jp.html)に詳細が載っているので割愛する。僕が気になったのは、家での作曲にはスタンウェイの小さいグランドピアノとアップライトを使っているらしいが、今回のライブで使用していたピアノはYAMAHAだった。坂本龍一はYAMAHAを愛用しているそうで、YAMAHAのピアノのイメージを「響きはまろやかで、ふっくらとした温かさがあります。上品な音がしますよね。木のぬくもりとでも表現したほうがいいのでしょうか、硬質な感じや金属的な感じとは異なり、日本の家の木造りのような雰囲気を醸し出しています。」と表現している。日本のメーカーが作るピアノに木のぬくもりという有機的なイメージを持っていたのも、ピアノの響きの減衰していく様に禅的な要素を見出していたのも、YAMAHAのピアノを使い続けていることに関係しているのかもしれない。

演奏もさることながら、私が一番身震いをしたのは演奏後のコメントだった。

ー自分としては、ここにきて、割と新境地かなという気持ちもあります

余韻と一抹の寂しさに浸っていた中で、思わず耳を疑ってしまった。1978年にソロデビューし齢70、ガンのステージはⅣ。そんな状態でも、さらっと言ってのけてしまうのだ。手元にある浅川マキのレコードには、若かりし頃の坂本龍一の姿も写っている。「60歳まではリハーサル」と言っていたアイスランドの歌姫の言葉を思い出す。坂本龍一はピアノを自分を表現する体の一部とする一方で、ピアノを不便で儚いものとしていた。津波ピアノ(アルバムasyncのZUREでこのピアノの単音を聴ける)を引き取ったり、100年ほど前のピアノを裏庭に野ざらしにすることで、ピアノないしは音楽の崩壊を願っていた中での闘病生活は、彼の71歳の誕生日に発売されるアルバムに大きく影響を与えているだろう。

劇中曲も数多い坂本龍一は、最近では「アフター・ヤン」という映画のテーマ曲を手かげている。気のおけない友人達がよく話題にしているので、映画に大して重い腰を上げる時かもしれない。

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