issue26
文章を自ら書き始めてみると、どうにも言葉に置き換えることができない感情や光景、現象にままいきあたる。
正確にいうと置き換えること自体はできるのだが、出来上がったものは自分が思い描いていたものとは全く違うものである。
本屋の店頭、目立つところに、正確なタイトルは忘れたが「現代人のための感情を表現する言葉の類語辞書のような本」(あくまで国語辞典とは違う)というのがあったので、パラパラとめくってみるが既に知っている言葉ばかりだった。
外部に頼るのをやめ、記憶を探り、似たような経験が今までにないか内部に聞いてみても返ってくる言葉はない。
ただ、表現しきれなかったという、モヤモヤとしたものが胸の内に残る。
そう、「モヤモヤ」。
オノマトペという、実に便利な表現しか残らない。
このモヤモヤを泣いて発散するのは子供までで、いい大人は言葉に落とし込んで納得する必要がある。
しかし、このことについて考えると、先人たちが残してくれた美麗で、優美な言葉、日本語を我々は失いつつあるといやでも実感してしまう。
冒頭の、本屋で見かけた本なんかがその例の一部とも感じる。
現代人にはなくて、皆が欲しているであろうとマーケティングされているもの、現代的に一言で言えば「語彙力」というやつだろうか。
小さい頃なんかは国語辞典を引っ張り出して、適当に開いたページの言葉を読むなんて遊びもしたものだが、ある程度の年齢にもなるとわざわざそんなことをする人は少なかろう。
だからこそ、読書という習慣、とりわけ余計な装飾のない純文学と呼ばれるジャンルを読むことは必要不可欠である。
確かに言葉も文章も時代とともにアップデートされていき、ひと昔ふた昔前の文学が非常に読みづらく、もはや大衆に支持されるものではないだろう。
が、それは現代の文章がいく年後には同様に読みづらいと評される可能性を持っていることの示唆でもあり、物語性や装飾にこだわった文章は、文自体の美を求めた文豪たちの綴る文章とは性質が違うだろう。
確かな技術で裏打ちされている言葉を文脈から(辞書をひくまでもなく)感じ取り、自分のものにしていく行程は今の時代だからこそ大切だと僕は信じたい。
現代人の感覚に合わせた様々な解説書が出てきていても、古典と呼ばれる偉大な哲学書の源流を、一度は自ら汲み取ることが大切であるのと同じように。
何よりも、こうしている間にも言葉がまず先に浮かんできて、感情や事実はその後に付随してくるものなのだから、物語の始まりはいくらあっても損はないだろう。
余談ではあるが、僕が密かに読んでいたブログがあるので以下にリンクを貼っておく。
100年前の、中学生から始まり高校生半ばまでのとある少女の日記が載せられている。
これを読み、日本語の失われつつある美しさ、明晰さを少しでも体感できることを、数少ないこの場の読者に願う。