服という存在

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 「服」について僕が日頃思っていることを綴ろうと思う。しかし、「服」は僕にとって大きな存在であり、結論まで導けていないので、加筆修正する機会があればそれも厭わないことを最初にお断りしておく。

 季節が巡れば環境が変わり、人間関係が変わり、自分自身も心なしか変わったような気になれる。それが一番わかりやすい指標といえば「服」だと、僕は思う。生活の三大要素と呼ばれる衣食住には「衣」が含まれているように、人間が人間として生きてく上では「服」は必須である(これ以降、衣服を服とまとめて表記する)。しかし、日本人が思い浮かべる三大欲求(食欲、睡眠欲、性欲)には「服」の文字は含まれていない。一説ではここに承認欲求を足して四大欲求という言い方もするらしいが、服への渇望=承認欲求とイコールで結びつけるのも何か腑に落ちない。異性を惹きつけたいとか、アップデートされた自分を見て欲しいとかの欲求を満たす一つの手段に「服」もあるかもしれないが、全ての人間が「服」にそれを求める訳ではないからだ。

 つまり、「服」は生活には必要だが、直接の欲には繋がらない。「食」は生活に必要だし、根本的な欲にも含まれると言える。だからこそ華美な食事の写真はネットに溢れかえり、際限なく湧き出る食欲を受け止めるだけの飲食店が列をなし、ユニクロやGUなどの安くて質の良いとされる画一化された服が広く浸透しているのだろう。勿論、人によってどれに重きを置くかは、個々の価値観に基づく。1000円以上のランチは高いが10万円のギターは安いと感じたり、5000円以上の服は高いがボトル2万円の酒は安く感じたり、そんなものだ。しかし、直近ではコロナ禍の影響も大きいが、人々の服への欲や優先度は下がりつつある。言い換えれば、現代人にとって服という存在は後回しに、そしてぼんやりと平らにされてきていると感じる。

 服は生活には必要だが直接の欲に含まれず、現代において画一化しつつある。それを僕なりに解釈するには、そもそも服を人が着るようになったのは何故か、そしていつからだろうかという根源的な問いから始めなければいけない。前者の答えですぐに思い浮かぶのは「厳しい寒さを乗り越え、外敵から身を守る機能性を持つため」と「恥部を隠し人間としての社会性を保つため」この二点だ。そして後者への答えと、これらの理由は密接に関係する。それは、アダムとイブが楽園を追放された時だ。

 アダムとイブは楽園で純粋無垢に暮らしていたが、蛇に唆されて神様に食べてはいけないと禁じられていた実を食べてしまった。すると、羞恥心が生まれ、恥部を恥部として認識しイチジクの葉で腰巻を作った。その後、神様に見つかったアダムとイブは実に人間らしいやり取りを見せついには楽園から追放されてしまうが、その時に神様から皮の服を与えられる。

 人間が人間として地に足をつけ、原罪を背負い続ける運命が始まると同時に、衣食住の心配をする必要性が生まれたと同時に、服という概念も生まれ落ちたのだ。服は人が人であるための証であり、原罪の証でもあるのだ。服というのはエデンから追い出された後付けで発生したに過ぎず、服への渇望なんてものは根本的な欲求には含まれていない。だからこそ、服の優先度は他と比べて下がってしまい、後ろめたさから着飾るのを敬遠し、機能性や社会性を保ちつつ無難なある程度のところに落ち着くのだろう。勿論、経済状況や環境問題なども背景には大きくのしかかっているが、それはあくまで後天的な問題である。人間にとって先天的に、無意識的に服は二面性を持っていることをお伝えしたかった。

 それでは、純然たる服への渇望とはいったいどこから湧き出てくるのだろうか。肝心なところなのだが、今の僕ではこの先へと思考を進めることが困難であり、答えはまだ出でこない。もしかしたら、冒頭に話した服が自分自身の変化の象徴になりうること、人間は昨日と今日の自分を同一だと感じることができる誤認力があること、このあたりが手がかりになるかもしれない。

 最後に余談だが、僕はランニングを生活の中に取り入れようと四苦八苦している。そしてなんとか身体を動かす時、ふと、高校の頃の柔道の先生が授けてくれた言葉を思い出す。

「心技体の順番には意味がある。まずは心を鍛えないことには技と体はついてこない。心を大切にしなさい。」

衣食住。この並びにも、何か通ずるものがあるような気がしてならない。