memory 25
AMADEUS
本や音楽はとかく読んだり聴いたりするのは好きなのだが、自分でも不思議なぐらいに映画は観ない。一度、なぜ映画を観ないのかパートナーに詰められた時は「感傷的になりやすい」「2〜3時間も座っているのが辛い」「情報量が多すぎる」など最もらしいことを並べて凌いでしまった。表面上は確かに自分でも考えられる理由なのだが、本質的にはどれもどこかずれてしまっている気がする。
と、深掘りしてしまうと本題とずれてしまうので、その本質を議論するのは置いておく。つまりそんな映画無精な僕が吸い込まれるように観たのが今回の「アマデウス」だ。仕事帰りの電車の中、ただ暇つぶしでアマプラの映画一覧を流し見していると、あるところで目が止まった。両手を顔の高さにまで重々しく持ち上げ、シルエットしかわからないがおそらく仮装をした人物(男性?)。瞳はこちらをまっすぐに射抜いてくる。そしてその額にはシルエットの中に杖を持った人物(魔女?)から放射状に白い光が飛んでいる。そして「アマデウス」と単語だけ。SFかな?と思うぐらいには全くどんな映画か知らずに、タイトルとその宣伝イメージが妙にその時の気分にしっくりと来たのだ。詳細を見れば、あらすじにはモーツァルトの文字。SFではないのかと、意外に思いつつ特に落胆することはなかった。あいにく購入しなければ観れないものだったが、自然と購入ボタンを押し、数十秒後には電車の中で見始めていた。
内容に関しては既に評価や考察などはたくさんあるので、今の僕が今のタイミングで観たことで得た知見をつらつらと書いていこうと思う。
まず一つ目は、無教養な私でもわかるモーツァルトという名前と彼の作品が楽譜を通して今でも伝わっている業績だが、「大衆に受けるか否か≒時代に合っているのか」と、「新しい試みの芸術的な価値」のバランスが当時も非常にシビアであったこと。同時に、モーツァルトですらそのシビアさに打ちのめされていたということである。定期的に資本社会下の芸術の立ち位置が議論されているのを目にする。つまり、金になる芸術か、金にならない芸術か。大衆に支持される芸術にすり寄るのか、自分の表現したいものをひたすら突き詰める芸術か。無論、どちらとも甲乙つけがたいし、自分のやりたいことが金になれば万々歳だ。しかし、マイルス・デイヴィスのように、大衆の好みが変化していく時代の流れに合わせてジャズの音楽性をブラッシュアップしていき、成功をおさめているアーティストもいる。久石譲は「ジブリのコンサートはすぐに埋まるが、現代音楽のコンサートはなかなか埋まらない。今の音楽を知って欲しい気持ちもあるが思うようにはいかない」といった胸中を著書に明かしている(日乗する音楽)。坂本龍一は「ささっとCM用に作った曲が大ヒットしたことが不思議」とのたまっている。プロでも、目指す音楽と時代に合った音楽の狭間で切磋琢磨したり悶々としているのだ。そして今回の、モーツァルトも。誰しもが苦悩した上で短かったり長かったりする人生を生き抜いているのだ。
二つ目は、世の中には「創り手側の才能」だけでなく「受け手側の才能」の両方が必要ということ。どんなにいいものが創られても、無教養で合ったりそれを翫賞する才能や情緒がなければ正当な評価はされず、後世に残らないのだ。映画内では作曲を渇望するサリエリがモーツァルトの才能に嫉妬し苦悩するシーンが多いが、モーツァルトの楽譜を見るだけで頭の中でオーケストラが鳴り、再現することができるサリエリも充分「受け手側の才能」はあるのだ。彼だけがモーツァルトを理解できる。そのことが余計に彼の苦悩を深くしてしまう訳だが、これは規模は違えど私らの日常生活でもたくさん起きている。他者と比較し、時には勝利を誇らしげに、時には敗北感に打ちのめされ。自分の求めるものが手に入らず、神を呪ったり。なぜあいつは。なぜ自分は。アイデンティティの確立が青年期に求められるが、それは他者と比較する危うさを孕んだ言葉である。しかし、自分の持たざるものの執着を捨て、今自分にあるものに目を向けることはある種のブレイクスルーをもたらしてくれるかもしれない。新たなアイデンティティがそこに生まれるかもしれない。映画は忠実とフィクションを混ぜているのでどこまでが本当かは定かではないが、苦悩するサリエリがとても哀れで、また美しくも感じてしまう。
以上、述べたように非常に共感したり自戒するような要素が多かった。読書は人の頭を借りて考えることだと痛烈な批判もあるが、しっかりと自分の意見を持ち、対話することができればそれは、非常に有意義なものであると私は信じている。それは、映画も同じかもしれない。受け手側の才能。lecteurかliseurか。数少ない読者はどうだろうか。