memory15
厳しい寒さを耐え抜き、柔らかくなった日差しを浴びて青々とする草はらに身を預ける。カバンの中身は硬いものばかりで枕の代わりにしてはいまひとつだ。伸びを一つすれば、耳元からは下敷きにされている本、ノート、ボールペン、イヤホンケース、家の鍵、財布、スマホたちの不平不満がガラゴロと聞こえてくる。それでも、そんなことは気にならないぐらいに気分がいい天気だ。視線を少ししたにやると、対岸の方でも同じように緩やかな傾斜に伸びきっている人が何人かいた。その隙間を縫うように子供や白い犬が駆け回る。甲高く抜けてくる歓声が響き、犬のしなやかな肢体は太陽の光を放ち白く輝いてる。子供はやにむに犬を追いかけ回し、犬の方はぴょんぴょんと数歩先を軽やかに跳ね周りながらも子供を意識の外からは追いだしていない。やがて子供が追いつくと犬は尻尾をちぎれんばかりにふりまわして子供の顔を舐め回す。
動物と人間を分けるものは理性の有無という話がある。動物には闘争か逃走の本能しかない。そして親子の愛情に見えるのも、種の保存という生物としての本懐が織りなす自然的な現象に、客観的なストーリを与えたものに過ぎない。しかし、こうやって目の前で繰り広げられているヒトとイヌのやり取りは、本能を捨て種を越えた絆を感じさせるのはなぜだろう。ヒトとイヌは太古の狩猟民族時代の時から共存関係にあり、DNAに深く刻み込まれているからだとある本には書いてあったが、おそらくその著者は犬が好きでたまらないのだろう。
生きるために、種を保存するためにより強い存在に自分の身を委ねること(本能)がヒトから見て愛情に感じたのであれば、大多数が去勢されDNAのねじれた輪の最後となっている彼らは何のために生きるのだろうか。言葉はまだ必要ないので、彼らは今のところ、何も語ることはなく沈黙を続ける。
…などと小難しいことも考えつつ、あの犬が川を飛び越え、こちらに駆け寄ってきてくれないかしらとじれったい気持ちを持て余すぐらいには私も犬が好きである。