Culture1
『夏は窓を振り返った。外の空は白く輝いている。切り取られた空。無限の空。海はどこにあるんだろう。』/恩田陸「図書館の海」
『その代わり人気のない薄明りの往来を眺めながら、いつかはおれの戸口へ立つかも知れない遠来の客を待つてゐる。前のやうに寂しく。』芥川龍之介/「窓」
この文章を読んでいる稀有な貴方には是非、画面から視線を上げてほしい。お家でベッドの上で転がっているなら優しい朝日や燃えるような夕日が差し込み、カフェにいれば外の喧騒が遠のくように見え、オフィスにいれば隣のビルで必死に働いている同志が見えるかもしれない。電車やバス、飛行機の中なら最初は興味津々に眺めていたのに延々と繰り返されるイメージに飽きていた頃かもしれない。例え外にいたとしても見える建物にはどれも窓があり、硬く閉ざされているか開け放たれている。
今回は「窓」に関したよもやま話だ。
いま時、窓のない建物はよほど秘密があると勝手に邪推しているが、なんにせよ現代の暮らしに窓は当たり前の存在になっている。ここでふと僕が気になったのは窓はいつから存在したのか?
日本に限った話にはなってしまうが、そもそも窓が存在するために必要な「家」の始まりは今から1万年前。縄文時代だ。全てを凍てつかせる氷期が終わり、生命を芽吹かせると同時に文化も花開いたのだろう。そんな彼らの憩いのホームを、私たちは学校の授業で一度は目にしているはずだ。地面を掘り、真ん中に柱を組み、その上に土や植物を敷いて出来上がる竪穴式住居だ。当時の再現物を見ると、上の方には出入口とは他に、確かに穴が見える。屋根部分は自然に還り、復元されたものは現代の想像でしかないが、おそらく囲炉裏の煙を逃すため、光を取り入れるために作られた。これが日本での「家」の始まり、「窓」の始まりと現段階では言えるだろう。
…おおまかな歴史や知識を現代人は調べようと思えば誰でも手元で簡単に調べられるが、僕が面白いと思うのはここからだ。人の脳はこの1万年変化してないと、ある精神科医は主張していた。無論、技術の進歩や価値観、社会性の違いはあれど、同じホモサピエンス。こじつけ感も否めないが、感性は同じ延長線上にあると僕は思う。そして人類の足跡において、日本の1万年前といえば縄文時代。この数字の偶然な一致は何を意味するだろう?
我々は同じ風景でも窓枠を通すことで、思いがけない感動を、鮮烈に焼き付く色彩を、心がハレルような空間を、生きていて良かったと豊かさを得る。同じ人間でも窓枠を通すことで、別人のように思える驚きを、見えない隔たりを感じる切なさを、胸がフッとするような一抹の愛しさにつまされる。四角い箱にあいた穴一つでここまでの物語が生まれる人間の感性を僕は非常に、素晴らしく思う。
そしてこの穴を通じた物語は、日出る国では、1万年前から既にその兆候を見せていたのだ。
1万年分の物語は今も綴られ続けている。そう思うと、見慣れた目の前の窓が、何か特別なものに見えて来ないだろうか。