国語のテストで、それも学校のではなく塾のテストで「ひとまわり」が何年か、選択させる問題が出た記憶がある。文脈は確か、年長の人が久しく会う親戚の子供に対してひとまわり大きくなったね、という流れだったか。選択肢はいくつかあり仔細までは覚えていないが、私がその問題を間違えたことだけは確かだ。そうでなければ、ひとまわりという単語が出るたびに一種の緊張感が内心に滲み出るはずがない。「ひとまわり」は、何がどこをひとまわりするのか?地球が太陽の周りか、月日がカレンダーを巡るのか、四季が次々と死と再生を繰り返し元の姿に戻る頃か。
おそらくテストに出た時は文脈で「大きくなったね」が語尾についたことで、「子供が倍大きくなるのに必要な年数」としたり顔で3年(もしくは選択肢でそれに近しい数字)と選んだしまったと、弁明させて欲しい。3年もあれば人は変わるものだ。姿形も内面も変わっていくものだと。そもそも、人は内面が否が応でも表に出ると昔から信じている。自分の中に何か心境の変化や、新しい概念を吸収していくとそれだけで生まれ変わったような気持ちになれる。目から鱗はある程度剥がれ落ち、多少のことでは動じなくなる。それに、服も髪型もメイクも日々変化していく。流行りを追っている自覚はないが、その都度アップデートしているつもりなのだ。
だから、あれからひとまわりもふたまわりもして、体は大きくなることはなくむしろ縮むか横に伸びるだけの年頃でも、旧友が街中のすれ違いや待ち合わせでも難なく私を有象無象から見分けて声をかけてくれることに毎度驚かされる。世の中には人が溢れている。モブキャラのように歩いている人たちの姿形なんてわざわざ見分ける必要も、見る必要もない。そんなもんだから、「えっちゃん!」と急に声をかけてきたモブキャラの顔の皮が破れて、旧友の12年、24年、36年ぶりの顔が現れると寿命が縮む思いだった。それと同時に、ああ、良くも悪くも私はまだあの頃のままなんだなとしばし落胆してしまう。子供での3年と大人の3年は違う。12年にもなれば尚更だ。そうだ、ちなみに「ひとまわり」の答えは干支を一周して、つまり12年単位のことだ。私たちの生活は12で縛られていることが多い気がする。漠然とそう思ってしまうのは、親を亡くし茫然自失としていた折に近所の美術館でやっていた展示の中で、快楽の園という絵画を観たからだろう。あれは一見変態的創造性の解放だけに見えるが、学芸員の説明文では12や7など、数字という秩序に支配されているものらしい。私からすると、視界に入った瞬間の、あのカオスが全てだった。突然の交通事故で遺族となった瞬間から、真ん中が空っぽになっていた頭と心に違和感なく溶け込んだカオス。内面は表に出る。今の私はどんな顔をしているのだろう?しかしそれも杞憂なのだろう。
ひとまわりするたびに旧友と増える話題は健康、相続、介護、教育、年金、後のもう何まわりも残っていない人生への憂いなのは仕方ない。私たちの体は、耐用年数を無理くり引き上げて老朽化に対抗する建築物なのだ。その建築物は理由もない暴力に晒される心配がない分(それもいつまでかわからないが)、雨風による風化を待つ他ない。風化していく街並み。白んできたままにしている髪も、隠しようのない笑い皺も私の内面だ。